すききらい

何年前か、まだ幼稚園ぐらいの女の子たちが、「わたし○○くん好き」「わたし△△くんきらい」と姦しく言い合っているのを見たときに、つきあえんなあ、と思った。
同窓会で、何十年ぶりかで会った女の子が、あの先生が好きで、この先生がきらい、とまくしたてていて、男子に、おまえは高校生のときからおばさんだった、と言われていたが、思わず笑ったが、あのころ、教室の一角は、この女の子たちの雰囲気で占められていて、私はそのあたりが苦手だった、と思い出した。

女の子って幼稚園の頃からおばさんだよな、と悪態つきたくなるが、小学生中学生の女子の話も、おばさんたち、おばあさんたちの話も一緒で、誰が好き、誰がきらい、あれがすき、これがきらい。
つまらん。というより、わからん。

中学一年の教室で、ある日、まわりの女の子たちが何を話しているのかわからなくなった。あれからずっと世の中は謎で、謎のなかを手探りで生きている。
何が謎であったか。

感情、というやつ。
すききらい、というやつ。

中学生のころかな、テレビでイスラム社会の特集をやっているのを見たときに、イスラム社会は神を中心にまわっている、一方で日本は、世論を中心にまわっている、という内容だったけど、私は、日本という国をこわいと思った。世論、などというあやふやなものが基軸なのである。世論の半分は、女の子たちのいう好き嫌いだろう。恣意的な感情にすぎないものだ。ああ、そんな、わかんないものにふりまわされる世界で生きていくのか、と暗澹とした。

たぶんいまも、暗澹としつづけている。
そんなものが民主主義であるはずがないのに、そんなものが民主主義とおもいなされている、その大きな錯誤のなかにいる、ということ。



アスペルガー症候群の本を読んで、ようやく腑に落ちたのだが、
「見えないものの把握が苦手」とある。
感情は見えない。自分の感情も。すききらい、という自分の気持ちは自明のことと思われているが、そんなことはない。

実際、気持ちの把握というのはむずかしい。
パアラランの子どもたちが、感情をあらわす言葉について絵文字を使って学習していた。
療育のワークなんかにも出てくる。

訓練がいるのかなあ。
自分については、もういまさらなあ、と思うんだが、
子どもには、気持ちを言葉にして言うことを、ときどき意識して促してみる。いやだったとか、悲しかったとか。

まわりの子どもたちに対しての、すききらいの感情は、ない。
それは私もなかったので、ないのが自然だと思う。他人は他人として存在しているだけで、私が好き嫌いをいうすじあいのものではないのだ。
感情が起こってくるのは、関わり方を通してであるが、
「ばか」とか「うすのろ」とか言ってくる相手については、こわい、とか、傷つけられた、という感情であって、きらい、ではない。
好きかきらいかと言われるとわからない。こわいのはいや、から理解する。

きみを傷つける相手を、きみはきらいだと思ってもいいんだよ。
でも、他人によって傷つけられているのが、自己の尊厳なのか、自己のエゴイズムにすぎないものなのか、ということはしっかり考えるんだよ。
と、中学生になったら、話してみよう。

傷つけたり傷つけられたりもないうちから、あの子すき、この子嫌いって、幼稚園のときから姦しい女の子って、脅威である。

傲慢不遜に見える。わがままでいやだなあって思う。おめでたい連中だ、と思ってあげてもいい。

でも、そういうあり方が自然な人たちもいるのだろう。

あなたは本心を言わないね、って女の子に言われて、警戒されたことがある。べつになんにも隠してないが。たぶんそれは、他人への好き嫌いを言わなかったからだろう。
でもとくに、好き嫌いはないんだもん。しょうがない。



好き嫌いの感情は、むずかしい。すごくわかりにくい。
人間関係で、一番混乱したのは、そのあたりだな。

好きも嫌いも、その基準がどこにあるのかわからなくてこわい。
好きが嫌いになる、なんてのは、もっとわからなくてこわい。
そんなあやふやに頼って、人生やものごとが動いていくのがこわいし、気持ちを無視して動くのもこわい。

ひとの気持ちもわからないし、自分の気持ちもわからない。

ひとの気持ちのわからない奴は、人間じゃない、と罵られたことがある。私は自分を欠陥商品かと思ったが、ついでに死のうかと思ったが、でもそれは、

ぼくの愛情を理解してくれなくて悲しい、とか、絶望しているとか、いうべきだったのだ。
なぜ伝わらないか、それはもうそれが、
愛情ではなく、嫉妬に変質しているからだけど。
ああ、その嫉妬や殺意のおぞましさなら、十分伝わっていたが。

そういうことがわかるのも、ずっとあとになってだ。

ずいぶん、こわい季節を生きてきた。



自分の感情がわかるときっていうのも、たまにはある。
嘘をついたときだ。

好き、と言われて、好き、と答える。ああ嘘だなあと思う。
嫌いかというと嫌いじゃないから、嘘でもないか、と妥協する。好き、が本当かどうかはともかく、ここでは、好き、と言っておくことが必要だ、と判断して、好き、という嘘を、自分にゆるす。

親友だね、と言われて、うん、親友だね、と答える。ああ、嘘だなあと思う。親友だね、って言わないでいてくれたらいいのに。友だちだね、ぐらいにしておいてくれればいいのに。そうしたら私は、嘘をつかずにすむのに。

そういう嘘は、いつまでも心に残る。

「親友」たちとの関係は、数年たたずに破綻している。嘘は長続きしない。嫌われて終わる。どこで、好き、が嫌いにかわったか、裏切られた、と彼女たちが言う理由を私は知らないし、知りたいとも思わない。
でも、「親友」と言えるために必要な覚悟が、欠落していたことは、たぶん最初から感じていた。彼女たちにも私にも。

子どもが、「ママはぼくの親友だよ」って言う。「ああ、そうだね」って答えたとき、やっと「親友」っていう言葉に出会ったな、と思った。嘘つかずにすんでうれしい。



他人に対して、苦手、というのはたくさんあるが、それは、嫌い、というのとは別である。
自分に対して、嫌い、は、自分の吐瀉物に自分でまみれるような生々しさで、常にあるが、生きてみるのはそれとの闘い、みたいなもんだけど、
他人に対して、具体的に、嫌い、という気持ちが湧くことって、ほとんどないのだが、たまにある。

で、気づいた。この「嫌い」は、軽蔑心である。
相手を、心のなかの「軽蔑」の箱に分類すると、嫌い、という感情が消える。
それから困る。考える。軽蔑には理由がある。なぜ軽蔑するか、何を軽蔑しているか、を言うほうが誠意があるのか、言わないのが礼儀なのか。

言って、人を逆上させたことは数え切れないほどあるが、言葉を尽くしても全然伝わらなくて、憎まれて悲しいが、だいたい、自分の軽蔑を伝えて、それは私の愛情なんだ、と思ってもらえるはずもないんだと、わかってからは、黙っていることが多くなった。

黙っているからといって、嘘をついているということではないのだと、妥協するようになった。年寄りを苦しめてもしょうがないなとか、いっても無駄だし、とか。ずるくなった気はする。

一方で、好き、のほうは、尊敬心からくる「好き」は自分のなかで嘘がない。気持ちのいい、好き、である。相手の感情や状況に左右されない。
フィリピンのゴミの山で、レティ先生に最初に会ったときに、この人を好き、と思った。そのときに自分が、心の底から落ち着いた。
敬愛できる人に出会えてようやく、私は自分の「好き」にたどりついた。
好きなものを見て生きればいいのだ。人生がわかりやすくなった。



嫌い、が軽蔑心と結びつくというのは、ちょっとした発見だったので、パパに言ったら、
「好き嫌いの基準は、人それぞれだよ。自分に都合のいいものが好きで、都合の悪いものがきらい、という判断基準の人もいる、さまざまだ。」
と言った。
そうか、そうなのか。こんなに長い旅をして、ようやく知ることができたのは、私自身についての「好き嫌い」の基準だけで、生きている人間の数だけ。好き嫌いの基準があるなら、それはもう理解不可能である。

わからん世界で、嘘もつきながら生きなきゃいけない事情は変わらないわけだね。
それでも、自分の「すききらい」がわかるようになったことで、私の世界には基軸ができた。