嘘をつくと、

土曜の夜でしたが、
息子、嘘ついてパパに叱られていた。
よくあることで、どうってことないと言えばどうってことないのだが、
パパは、このあたりで本気で叱り飛ばすつもりらしく、
私もその日一日、いくつも嘘をつかれて、見過ごせないなあと思っていたので、かばってやる気にならず、

「おまえみたいな嘘つきと一緒に暮らせるか。月曜に手続するから、東京の施設に行け。もうおまえとはお別れだ」
とパパに言われて、泣きじゃくる子を、いささか冷たく眺めていた。
しかし、東京の施設ってどこよ。
「おまえ、東京に行きたいんだろ、行けよ。新幹線代ぐらいは出してやるよ。さもなきゃ段ボールで送ってやる」
って、パパ。
「ちがうちがう、東京へは家族で遊びに行きたいんです、ひとりはいやです、施設は無理です」
って、息子。
息子、なんとかそのおそろしい罰を逃れようと画策するんだが、パパの毒舌にかなうはずもないのであって、追いつめられて言う。
「ママ、ナイフをください」
それは、死にたいほど悲しい、ってことでしょうか。
「はい、そうです」

ママも、きみに嘘をつかれて、たいへんかなしかったのですが。きみは、去年、クラスのIくんに、嘘をつかれて、「人間は死ぬ、Iも死ぬ」って、ぼくは書いてないのに、書かれたって言われて、悲しかったでしょう。
息子、ただもう、さめざめと泣く。

でもこの比較はかわいそうだな。息子のは他愛ない。やってない宿題をやったと言ってゲームして、でもやってないので、夜中にこっそりやろうとして見つかって、それならそれで正直に言えばいいものを、さらにあれこれと嘘を重ねようとしたのだった。頭のいい子は面倒である。いろいろ思いつくからね。

「あのさ、ひとつ嘘つくと、それを隠すためにまた嘘つくわけよ、それを隠すためにまた嘘つく。そうやって嘘を重ねていくと、もともとのほんとうは何だったかわかんなくなっちゃう。今日きみは、朝からママに嘘つきっぱなし。なのに、嘘じゃないって言い張ることまでする。もう、ママの大好きな子はいなくなってしまって、ただの嘘つきが残った。たまねぎの皮をむくみたいに、むいてもむいても嘘。どうしよう」
って言ったら、
「ああ、こういうことなんですね。嘘をつくと自分を失うって」
って泣き崩れて言う。

さて、嘘つきの大先輩なわけですけど、親の私たち。
嘘をつこうと思わなくっても、嘘ついてしまう。そういうふうにできてる。
それがどんなに苦しくて、嘘をつかない人間になろうと、どれほど苦しんできたか。
息子、正座して聞いている。捨てられるか捨てられないかの瀬戸際になって、ようやく、まじめな精神があらわれた、という感じ。

もちろん、このかわいい子をどこかにやってしまったりできるはずがなく、それじゃあ、戒めのために、書き初めして壁に貼っておきましょうかね、と言ったら、
それではもう自分が嘘つきだということがみんなにばれてしまうので、かんべんして、と言う。
じゃあ、カードにボールペンで書いて、自分の目の届くところに貼っておこう。

「かんしゃくを起こすと、友人を失う。
嘘をつくと、自分自身を失う。」

ホビ族の格言らしいです。

☆☆

今日、たまたま読んでいた本に、こんなくだりがあった。
『子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!』中央公論新社

「言葉の介在を必要とする相手には必ず嘘をつくことができ、われわれは他者に向かっていつも(たいていは無意識の)嘘をつき続けている。だが、神に対して嘘をつくことはできない。「嘘のお祈り」は不可能である。それならなぜお祈りに言葉が必要なのか。それは、嘘をつけない言葉を語る機会を、われわれ自身が必要としているからである。そういう機会を作らないと自分が何であるかわからなくなってしまうからである」(永井均)

神様っているのかなあ? という質問に対して。

そうだなと思った。