ぐゆみ

ぐゆみ、って言っていた。でも、ぐゆみって言っても通じないのだった。
このあたりでは、びっくりぐみ、って言うらしい。何がびっくりかなあ。
気がつくと6月で、庭のぐみの実が、たわたわ実っていた。

子どもの頃暮らしていた家の庭にぐゆみがあった。実ると、採っては食べた。
この家に来たとき、ぐゆみの木があって、なつかしかった。消えた景色がまたふとあらわれたみたいに。ここで生きるなりゆきを、信じてみようと思った。

さて、うちの小さな庭は、夏は暑い、冬は寒い、春もまだ寒い、と私が怠けている間にものすごいことになっていて、日も射さない。これ以上ほっとくと、手に負えなくなるに違いない。観念して、朝から錆びかけたハサミに油をさして、剪定する。ちょっきんちょっきん。
抱えきれない小枝の山は、畑に運んで、そこでまたちょっきんちょっきん。ひたすらこまかく砕いていった。もみじやキンモクセイやあれこれの小枝や葉っぱがふっかふか。
暑くなくて風も吹いてて、私は1日もの言わず、ひとりで、地べたにすわって、ひたすらちょっきんちょっきん。こういう単純作業は好き。頭も体もからっぽになる。なんにもなくなって風だけ吹いていく。ちょっきんちょっきん。

学校から帰ってきた子どもが、近所のM兄妹と畑の階段のぼってくる。残念だなあ、一週間前なら、いちごがたくさん採れたんだけど、いまはもうなんにもあげるものがないよ。

もともとは売れない造成地のカヤでおおわれた荒れ地だった。それをタダで借りている。今は2割ぐらいがカヤでおおわれた荒れ地のままで、2割はフキと雑草の自生地帯。残り6割をなんとか使えるようにしたが、石ころとか建築資材とかタイヤとかあれこれのゴミとか、カヤの根っことか、いろいろいろいろあって、だから、畑をつくって、種や苗を植えているのではない、とりあえず、すきまをつくって種や苗を植えたところを、畑にしていく。去年の朝顔やふうせんかずらやミニトマトの種はあっちこっちから生えていて、踏まないようにそのまわりを石で囲っていくのがもう、迷路みたい。間違わずに歩けるのは私だけ。

畑つくる、と言い出したのは子どもだが、もうとうに興味はなくて、やってくると、なぜか必ず小便だけして、じゃあね、と帰っていく。犬か。

庭のぐゆみ、子どもは味も舌触りも気にいらないみたいで、吐き出していた。
子どもの頃、赤くなるのをまちかねて、食べたけどなあ。誰も一緒に食べてくれないので、ひとりで食べる。
6月。