朗読会 in 広島朝鮮学校

撮った写真のほとんどすべてが、手ぶれを起こしていて、私はよほど緊張しているか、感動しているか、だったと思う。
思い出すとまた泣きそうなんだけど。
いや、朗読会のときには泣かなかったけど。

司会の李和枝さんの声がやさしかったし、ひとりひとりの声が、なんだろう、邪心がない、あたたかい。心に響きすぎて、たまんなかった。
そう、たまんなかったのです。

朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』収録の12編の詩と短歌の朗読、特別企画「1950年代の詩の朗読」(崔真碩さん)朝高生の歌、と詩の朗読5編。 

予定通り、2時にはじまって4時に終わる。この時間采配が、なんかみごとで、プログラムを考えたひとりとしては、うれしかったです。

それから裸足の真碩さん。テント芝居で鍛えられた朗読は、お芝居のようで、迫力だった。はだしのじんそくさん。マイクもとっぱらっちゃったんで、そのあとの朗読者、みんなマイクがなかった。
なぜ、1950年代の詩、日本人と朝鮮人の詩を読むかという話は、心に残った。朝鮮戦争を本気でとめようとした日本の労働者の詩、を紹介してもらった。
真碩さんの用意してくれたテキストは、いろんなことを考えさせてくれた。また、書きます。

ずっと韓国人被爆者の治療に関わってこられたお医者さんで、今月も韓国のハプチョンに行ってきたばかりだという詩人の御庄さんのまなざしが、やさしくて、私は目があっただけで、しあわせな気持ちだったりしたんだけど、なんかなんか、すごくここには、いい人が集っていたんじゃないだろうか。
そのことに、ものすごく心が励まされたと思う。

深くやさしく美しい心の人たちが味方なのである。そういうものを引き出せる、つないでゆける詩の力ってすごい、と思った。声の力、場の力。

それでもって、春にお会いしたときもそうだったんだけど、校長先生が、生徒をほめる。子どもたちが一番えらいです、とほめる。生徒を心からほめることのできる先生って、たぶんものすごく幸福だろうなと思う。
その幸福にこちらがしあわせな気持ちになる。 

ほんと、子どもたちが、って失礼ですかね、高校生たちが素晴らしかったです。歌も朗読も。

  テレビを見ると腹が立つ
  スパイを育てる学校?

  ほんまにそんなこと思っとんか
  ただのいじめにしか見えんのんじゃ

とても姿勢のいい、きれいな女の子の、広島弁に、しびれました。すご…。
広島弁って、こういうふうに使うんだなって。 

うちの息子に教えよう。また最近、学校で泣かされてるみたいだし。
いじめに負けない、ただしい広島弁の使い方。

「広島朝鮮学校を訪ねて」という原稿をのせた冊子を、間に合うように届けてくださったプラッサの編集部さん、ほんとうにありがとうございました。
資料は100部刷ったのに残らなかった。亡くなった呂相豪先生の最後の原稿になったようです。創立時からの大事なお話をとどめることができてよかった。

気づかないけれど、いろんな壁を、それぞれに乗り越えたような一日だった気がします。それから、何かよろこびが生まれてくるところに、いた。はい、たしかにそうでした。

懇親会もたいへん楽しかったです。いろいろと、ほんとうに、ありがとうございました。

今後、京都と東京で、朗読会があります。
河津さん、オンニョさん、巡業するんでしょう。
成功を祈ってます。
ちなみに無償化はまだ適用になってません。見込み、にすぎないのです、まだ。
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