「短歌研究」10月号に

そういえばもう何ヶ月も、本屋も図書館も行っていない。
ここ、熊やたぬきや鹿がでるだけあって、不便なんです。
そんなわけで、詩歌の雑誌は本屋や図書館に行ってさえ、目にとまらなかったら見ないし、今年度の新人賞のことなども知らない。
のですが、
昨日ふと見た、ある歌人のブログで、「短歌研究」の10月号、評論賞の選考座談会で、野樹の名前が出てたらしいと知り、だいたいどんなことか予想はつくけど、とりあえず、たしかめにいった。

評論賞の選考に残った評論のなかに、野樹の短歌を取り上げてくださった方がいて、斉藤寛さんというのですが、うれしいです、ありがとうございます。
で、それについての選評のなかで、委員の篠氏の次の発言があったのでした。

「私は実はあまりよく知らなかったんですが野樹かずみさんという在日朝鮮人の方の作品(「奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮」)を挙げて、やはり逃れられない、当事者としての社会詠の作品を知りました。」

ああ。見てしまったから、誤解は解いときます。
あいにく私、野樹かずみは在日朝鮮人でなく、日本人です。

日本人なのに、なぜそういう作品を書いたかについては、ちょうど10日ほど前に、全然違う文脈ですけど、思ったことを書いてあるので、参考までに。
http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/2010/09/post-a5ee.html

20代のときの作品かな。
作中の私は、どんなに現実の私とオーバーラップしようと、作品となった時点ですでに、虚構の私だと思っていました。
だから、新人賞もらったあとに、李正子さんという在日の歌人の方から、私を同胞と思ってのお手紙をいただいたときは、とまどいました。作中の「私」の言動について、現実の私が対応しなければならないという事態が、まったく思いがけなかったのです。もちろん、日本人だということを書いてお返事した記憶がありますが、あれから、こんなに歳月が過ぎたのに、また同じ場所にいるみたいで、へんな気分。
まあ、誤解されたままでも、全然かまわないんですけど。

でも何より、あんなに昔に書いた短歌を、歌集を出したのは3年前ですが、評論にとりあげてもらえたということは、素直にうれしいです。

それはそれとして。

在日朝鮮人」の生きがたさは、たとえば今度の朝鮮高校の高校無償化除外の問題ひとつとってもそうだけれど、「朝鮮人」であることに由来するのではなく、「在日」することに由来します。

つまり、日本社会が、彼らに負わせている生きがたさなのであり、その意味で真の当事者(加害者としての当事者)は、日本人であり、日本社会です。そのことに、日本人が気づいていないことが、私は不思議でおそろしい。

子どものころ「相手の立場に立って考えなさい」とは、母親によく言われたことですが、自分たちの政策や言動が、相手にとって、どのような意味をもつものか、苦しみをもたらすかということを、こんなに考えられないのは何なのか、どうしてこんなに徹底的に、相手の立場に立つということが難しいのか。

たとえば花いちもんめで、あの子がほしいと、相手の陣営にもらわれていく子どものように、まずは自分の場所をはなれて、相手の側に両足そろえて立ってみれば、見える風景は全然違う。
さっきまでの自分が、どんなふうに見えていたかも、相手の側に立ってはじめて見えることで、たとえば私の背後で鬼や蛇が暴れていても、私もまた、鬼の子の顔をしていたとしても、それは、向こう側に両足そろえて立つということをしなければ、きっとずっとわからない。

きっと、生きて他者と出会うことの意味は、花いちもんめで、もらわれていく子どもになることだと思う。そうしてはじめて自分と出会えるし、自己と他者の異なるアイデンティティの共鳴が起こる、と思う。それはすごく楽しいことだ。

うすうすわかってはいる。母が、またせいぜい7歳くらいだった私に「相手の立場に立って」としつこく言ったのは、私がそれが本当に難しい子どもだったからです。他人の気持ちなんかわからんし。そのあたりの決定的な想像力の欠落を、たぶん母はものすごく心配したのだ。
それでも生きてみて、想像力の欠落は、経験がすこしは埋めてくれたろうか。そして経験というのは、やっぱり花いちもんめ、なのだと思う。
相手側にもらわれてゆかない花いちもんめなんて、楽しくもなんともないと思う。

高みから何かを見おろすようにして、もの知りげな口をきくのは「理解」でもなんでもないからな。それはただ、怠惰と臆病と傲慢、せいぜい偽善にすぎない、ということも、両足そろえて立てばわかる。

そういえば、こないだ大阪で在日の朝鮮語で詩をかく詩人たちの会合に出させてもらったとき、短歌の表現について、聞かれたのでしたが、なんにも答えられないのでした。「カンです」って言ったかな。「カンで書いてます」。ああ、短歌って、なんでしょう。

「だから、それではさようならって書けばいいんだよ」って、後ろで子どもがうるさい。彼はいま、パソコンでゲームをしたくて、私をここからひきはがしたくて仕方ないのだった。
ということで、
「それではさようなら」