オスプレイ飛来 琉球新報社説

琉球新報社

オスプレイ飛来 恐怖と差別強いる暴挙/日米は民主主義を壊すな
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-197577-storytopic-11.html

 米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ6機が1日、一時駐機していた米軍岩国基地山口県)から普天間飛行場に移動、配備された。県民の総意を無視した暴挙に強い憤りを覚える。
 オスプレイ配備への怒りを県民総意として共有した「9・9県民大会」から3週間。仲井真弘多知事や大会実行委員会の代表、抗議行動に集う老若男女は繰り返し配備に異議を唱えているが、日米両政府は「理解してほしい」とし思考停止状態にある。言語道断だ。

植民地政策
 わたしたちが目の当たりにしているのは、日米両政府による民主主義の破壊、人権蹂躙(じゅうりん)にほかならない。配備強行は植民地政策を想起させる蛮行であり、良識ある市民とメディア、国際世論の力で速やかに止める必要がある。
 オスプレイは試作段階で30人が死亡したが、米政府は量産を決めイラクなどに実戦投入した。しかし4月にモロッコ、6月には米フロリダ州で墜落事故を起こし計9人が死傷。海兵隊のMV22オスプレイに限っても2006年以降30件以上の事故を起こしている。県民は事故の絶えないオスプレイが県内に配備されることを人命、人権の脅威と認識している。
 しかし両政府は過去の事故原因を「人為的なミス」と結論付け、機体の構造に問題はないとの「安全宣言」を行った。県民は宣言が、構造上の欠陥を指摘する米側専門家の証言などを切り捨てた、虚飾にまみれた調査報告に基づいてなされていることを知っている。
 県知事と県議会、県内41市町村の全首長と全議会がオスプレイ配備に明確に反対している。琉球新報社世論調査では回答者の9割が普天間への配備に反対した。
 仲井真知事が強行配備について「自分の頭に落ちるかもしれないものを誰が分かりましたと言えますか。県民の不安が払拭(ふっしょく)されない中で(移動を)強行するのは理解を超えた話だ」と批判したのは、県民の声を的確に代弁している。
 森本敏防衛相は「普天間飛行場の固定化防止と沖縄の基地負担軽減について県知事、関係市長と話し合う次のステージに進むと思う」と臆面もなく語るが、県民の多くはそもそも海兵隊が沖縄の安全に貢献してきたとは考えていない。むしろ戦後、基地から派生する事件・事故や犯罪によって県民の安全を日常的に脅かしており、沖縄からの海兵隊撤退を望んでいる。県議会も海兵隊の大幅削減を過去に決議している。

非暴力的な抵抗
 オスプレイ沖縄本島やその周辺で墜落事故を起こせば大惨事になる可能性が大きい。オスプレイ配備は在沖海兵隊基地の永久固定化の可能性も高める。配備強行は沖縄に過重負担を強いる構造的差別を深刻化させる。県民はこれ以上、差別的扱いを甘受できない。
 日本政府は例えば原発事故に苦しみ、放射線被害におびえる福島県民に対し、原発を押し付けることができるだろうか。できないはずだ。基地に十分苦しみ、「欠陥機」墜落の恐怖にさらされている沖縄県民にオスプレイを押し付けることも明らかに不当である。
 日米は沖縄を植民地扱いし、強権を駆使して抵抗の無力化を図ったり県民世論の分断を試みたりするだろう。だが県民は日米の常とう手段を知っており惑わされない。
 基地は県民に利益をもたらす以上に、県民の安全や経済発展の阻害要因となっている。沖縄は基地跡地を平和産業や交流の拠点に転換する構想を描き歩み始めている。
 普天間飛行場の一日も早い閉鎖・撤去を求める県民の決意は揺るがない。オスプレイの配備強行により、県民の心は基地全面閉鎖、ひいては日米関係の根本的見直しという方向に向かうかもしれない。
 県民は沖縄に公平公正な民主主義が適用されるまであらゆる合法的手段で挑戦を続けるだろう。日米は人間としての尊厳をかけた県民の行動は非暴力的であっても決して無抵抗ではないと知るべきだ。

引用終わり

☆☆☆


 いろんな意見があるんだろうけれども、意見の違いは、立場の違いというよりも、目の高さの違いだと、ときどき思う。

 防衛上オスプレイが必要だ、という人はきっと、すごく高いところから地図を見おろしているんだろう。その下で轟音にふるえる子どもたちの姿は見えないんだろう。見えても、がまんしろ、と言うのだろうか。もしもそこに自分たちがいたら、と思う。聴覚過敏のある子どもは、ふだんの学校生活でも耳栓がほしいときがあるくらいなのに、ヘリコプター飛んだら、とてもそこで暮らせない。

 できるがまんと、できないがまんがある。がまんの限界を超えていると思う。いやだ、というのは、理屈ではなくイデオロギーでもなく、存在の全部をかけて、いやだ、と言っているのだ。

 自分の意見をもつ、どういうふうにもつか、というのは、たぶん、自分の目の高さをどこに置くか、という意志と関わる。

 私は国家ではなく、私は日本ではなく、私は領土ではなく、私は飛行機でも電車でも車でもなく、自分ひとりなら歩いて移動するしかなく、お金もなく、かといって何もないので気楽というわけにもいかず、子どもはいる。

 オスプレイ配備を推進容認するという考えを理解するには、目の高さをものすごーく高くしなければいけない。でもそのあと、私は地上100センチとか150センチのところに戻るのである。この墜落のおそろしさ。
 堕ちるときはひとりだ。国家は、まちがっても地上100センチでものを考えない。
 
 ひとりで、堕ちた場所から考えるのが思想だと思う。私は国家ではなく、私は日本ではなく、私は小さな一個の人間であるから、こわい飛行機はいやだ、と言う。こわいものはいやだ、と言う。

 その小さな声が大事だというのが、民主主義だと思う。そのような声を侮るひとたちと、つきあいたくない。