チェルノブィリ


 曇り空だったか、小雨がぱらついていたか。雨模様の空だったような気がする。20年前の4月26日。でも記憶違いかもしれない。雨合羽を着た女の子を見たから、記憶の空が、雨模様になっているのかもしれない。
 その頃、広島で暮らしていたのだが、その日私は、「風にのって雲が流れてきて、こっちのほうにも、放射能の雨が降るかもしれない」と人が話すのを何度も聞いた。幼い子どものために、雨合羽を買いに行く戦後生まれの母親を見た。「黒い雨が降ってきたら、困るけんね」と言った。小さい子は傘を上手にさせないから、放射能の雨に濡れないですむようにと。まるでチェルノブィリが、すぐ隣の町であるかのようだった。新しい雨合羽を買ってもらった女の子が、うれしそうに袖を通して、くるくるとまわっていた。
 自分が、ほかのどの町でもない、広島にいるということを、つよく感じた日だった。あの日、東京や、あるいはニューヨークやパリやモスクワの、母親たちは、子どものために雨合羽を買ったろうか。
 チェルノブィリの事故から20年。いいようのない、取り返しつかない、そして終わりの見えない惨事。

 そして1度離れた広島に私はまた戻ってきている。10年ぶりに広島で暮らしはじめたとき、テレビやラジオのニュースで耳にする「ヒバクシャ」という言葉がとても新鮮に響くのに驚いた。東京にいる間は忘れていた言葉だった。でもここでは、ヒバクシャという言葉をニュースで聞かない日のほうがきっと少ない。旧ソ連、韓国、ブラジル、それからイラク、世界各国のヒバクシャに関する話題が、ここではローカルニュースになる。あの日、子どもの雨合羽を買った母親にとって、チェルノブィリが、すぐ隣の町であったように。

盲いしゆえ指もてたどる墓碑銘にわれの名もあるチェルノブィリ址 (蝦名泰洋) 
かりそめの終末越えて味わうと思えば苦いにがよもぎかな (蝦名泰洋)

春はまたチェルノブィリにめぐりきてしずかに消えつづけるいのちは (野樹かずみ)