窓
 
 開け放たれた窓を外部(そと)から見る者は、閉ざされた窓を透して見る者と、決して同じほど多くのものを見ない。蝋燭の光に照らされた窓にもまして、奥床しく、神秘に、豊かに、陰鬱に、まどわし多いものはまたとあるまい。白日の下に人の見得るものは、常に硝子戸のあなたに起るものよりも興味に乏しい。この暗い、または輝いた孔虚(うつろ)の中には、人生が生き、人生が夢み、人生が悩んでいる。
 (以下略)
    ボードレール『巴里の憂鬱』 三好達治訳 
 
 高校1年の冬に読んだ詩集。そのほかの詩は覚えていないが、「窓」というこの詩を大好きだった。目に見えるものだけがほんとうのものじゃない、という「星の王子さま」の言葉につながるような内容なのだが、見えないものに思いをいたすことができるのでなければ、聞こえない声を聴くことができるのでなければ、ほんとうのことがわからないまま人生が終わってしまうんじゃないかと、学校の帰り道に、どぶ川の汚い緑の水面を見ながら、思いつめて歩いていたことを、思い出す。
 
 母親は何も言わなかったし、父も放っておいてくれたのはありがたかったけれど、親戚たちは、会うたびに言うのだった。「女の子のくせに本ばっかり読んで家のことを何にもしない」「女の子が本なんか読んだら、尻が重くなるばっかり、なんの役にもたたん」「おまえみたいなのが、学生運動なんか、ろくでもないことするようになるんやろう」。小学校しか行けなかったり、戦後生まれでも中卒があたりまえのようだった親戚たちの間で、身内に、本なんか読む子どもがいるというのは、ずいぶんへんなことなのだった。ましてブンガクは人生をだめにするときまっているのに、この子はへんなものにかぶれて。
 
 ひとつひとつの窓にはそれぞれの生活があった。貧しさや、いさかいや、病気や、あれこれの煩わしさで織りなされている生活に、ただそれだけの生活に、いつか自分もからめとられてしまうだろうかと、おびえた。からめとられてしまう前に、見つけなければいけない何かがあると、急かされるような気持ちだった。
 窓のなかの現実を見ないために本を開き、でもそれはいつか、窓のひとつひとつに灯る自分と他人の人生を、好きになることができるために必要なんだと、ひそやかな確信はあったけれども。