淵上先生のこと

 グーグルで調べごとをしていたら、どこかで見覚えのある名前が目の端にとまり、気になって検索したら、ああ思い出した。大学のときのロシア語の先生だ。そうか、こういう名前だったか。厳しい先生で、単位をくれなかった。というか、私が怠けすぎていたせいで試験を受けさせてもらえなかったのだ。結局留年して、次の年は試験を受けさせてもらえることになったけれど、その日私は遅刻して行った。それで試験問題を半分免除してもらって、授業で扱った文章ではないほうの長文読解をすることになり、それが非常にありがたかったのは、ドストエフスキーの『罪と罰』の最後の場面で、単語の活用や文法がわからなくても、本を読んでいたので、なんとなく訳せてしまえたことだ。
 
 もうひとりのロシア語の先生のことも思い出した。若くてやさしい先生だった。試験のときに、勉強していないし、わからないから、答えの欄に「わたしはわかりません」というロシア語を書きまくったのだが、「わかりません」も答えのうち、と単位を出してくれた。研究室での講義は、コーヒーを飲みながら煙草を吸いながら。予習していかなくても単語も先生が教えてくれるのだった。試験に『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文章が出てきたことをおぼえている。「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。」
 「トロイカ」や「カチューシャ」のロシア語の歌を教えてくれたし、授業中にも歌っていた。ロシア語のアルファベットも単語も、私はなんにも覚えなかったし、覚えていたわずかの単語もことごとく忘れたが、「トロイカ」の一番だけ、まだ覚えている。農奴たちが仕事がつらいと嘆く歌だ。
 
  「トロイカ」を歌っていたその先生の名前も私は忘れていたが、検索したらすぐに出てきた。淵上先生というのだった。全然勉強はしなかったが、研究室での授業は好きだった。アルバイトと人間関係の難しさでくたびれはて、勉強どころでなかったあの頃、どうして予習をしてこないのか、などと決して叱ることなく、行くとまず、黙ってコーヒーを入れてくれる、あの授業は、とてもくつろいだ。
 淵上先生が亡くなったことは、卒業後まもなく、耳にした記憶がぼんやりとある。そのことも検索してみて思い出した。暴走族の車にはねられたのだった。享年40歳。その先生の著書が一冊だけあることもわかった。ロシア文学の研究書。東京の古本屋にあることがわかり、注文した。
 
 思いがけず、インターネットから呼び戻された記憶。