子どもが泣いているのは

 もちろん、わかっている。子どもが泣いているのは、ときどきは私たちが泣かせていたりするのだ。
 
 きっと夫婦喧嘩に見えるに違いない言いあいは、だんだんパターンがわかってきたけれども、これまでにもずっとあったことなんだけれども、相手が怒る、その怒りの理由が私にはわからない。距離のある関係なら、それをつきつめたりすることもないんだけれども、距離のない関係だと、わからないですまないので、わからない、なぜ、どうして、だって、といいかえすことが、また怒らせる。ようやくなんとなくわかるのは、私に何か欠落があるらしい、ということだ。しかし、欠落というのは、ないから欠落なのであって、何がないのかは、ないからわからないし、何を気をつけていいかもわからなくて、くたびれる。それを見ている相手はもっとくたびれるらしいのだが。
 
 ときどきそれは子どもに関係しているが、(昨日のそれは、どうして子どもに鉛筆をもたせるんだ、目をついたらどうするのか、という言われてみればもっともなことで、そういうことに気づかない神経が信じられないというのだったが、でも気づかないのだ)、内容がなんだろうと、親たちが怒鳴っていれば子どもは泣く。ああ、また泣かせてしまったよ、とはげしく落ち込んだりするわけだ。
 
 「あんたのなかの文化の断絶のようなものは、戦争のせいか」という夫の発想もおかしいが、「ああ、そうかもしれない」と思う私もなんだかへんだ。もちろん戦争が終わって生まれて、戦争を知らずに育っているんだけれども、どこかで戦争を知っている気はするのだ。遠くに悲鳴や泣き声がひびいているし、死体を踏んで歩いた感触が足の裏にして、それがとてもこわくてつらかった時期もある。アウシュビッツを生き残った人たちのトラウマのありようを、どうも他人事ではないと本を読んだとき思ったし。アウシュビッツを生き残った女性が、娘に「おかあさんは冷たい」となじられるが、悲しいとかかわいそうとか思えないのだと語っていたのを、昔何かの番組で見たのをふと、思い出したりする。
 
 思えば人類の歴史は戦争ばかりなのだから、人間が生まれ変わりをするものだとすれば、むろん私の手だって血塗られているだろう。私の血塗られた手が子どもを血祭りにするんじゃないかとおびえはじめたら、きっと神経を病むだろうが、そのようなものとして自分が在りうることは、それなりに自覚しておいていい。
 
 どうか。子どもが、この親から自分を守ることのできる強運の持ち主でありますように。