「薔薇の沈黙」

15歳のころに、リルケを読んだことは、何かしら決定的なことだった。
 
  存在しよう! と心に決めた以上、
  この世に欠乏があるなどという迷いに陥るな。

というフレーズは、私の蜘蛛の糸になった。オルフォイスへのソネット。誰の訳だったか、わからないのだが。

辻邦生の遺著「薔薇の沈黙 リルケ論の試み」はとても美しい本だった。
辻邦生の「春の戴冠」は高校一年の夏に、読みふけった。忘れられない本だ。探しているんだけれど、絶版になっていて見つからない。)

「生命という至福の業(わざ)」をリルケは<薔薇>という形で言った。

   ぼくはお前を見つめる、薔薇よ、半開きの書物よ、
   細々と幸福を書き綴った
   多くの頁。ぼくはとても
   読みきれそうにない、魔法の書物
           「薔薇Ⅱ」

辻の遺著「リルケ論の試み」は次のように結ばれている。

「おそらくいまわれわれにとってなすべきことは、<見る>ことの果てに出現した<対象(もの)としての世界>を、いかにして<薔薇空間>へ変容するか、ということだろう。不毛と無感動と貨幣万能の現代世界のなかで、はたして至福へ向かってのそんな転回が可能かどうか、われわれがある決意の時に立たされていることは事実だろう」



庭の薔薇が咲いた。薔薇のアーチができている。

子どものころ暮らしていた家にも薔薇が植えられていた。ちょうどこんなふうに、玄関先に薔薇のアーチができていた。花盛りの五月に、必要があって庭を掘り返していた父が、薔薇の根を砕いた。
私はそれを息がとまる思いで見た。それは薔薇の根っこだと言ったら、父は、これが薔薇の根っこであるもんか、と言い張った。
けれどもそれから数日のうちに、薔薇の花はみるみる枯れてゆき、母が泣きじゃくる私のために、枯れた花びらを集めて、干していた。「まくらをつくってあげる」と言ったが、まくらにするには花びらの量が足りず、たぶん、捨てることになったんだろう。

庭の薔薇が咲いた。私はささやかな復讐をはたしたような気持ちでいる。薔薇、咲いてくれてありがとう。ろくに世話もしてないのにね。