光州の五月

「光州の五月」(宋基淑著 藤原書店)という本を読んでいる。
光州事件を題材にした小説。事件のあったころに、息をのむようにして、テレビや雑誌で見た光景を思い出す。若い男女が下着姿で道に転がされたり、装甲車に乗せられていた。軍隊が自国の市民に銃を向けた惨劇。犠牲者は600人とも2000人ともいう。
あれから、どれだけ長い歳月が過ぎたろう。

事件が起きたとき、私は田舎の高校生で、ソウルの大学生と文通していた。外国語大学の学生と。権ヒョンギさんという男の学生。五か国語ができるというのだから、優秀な学生だったろう。手紙の文字はとてもきれいだった。どんなやりとりをしていたんだったろう。2週間に一度ずつ、手紙は行き来した。私は絶望的に英語の苦手な受験生だったが、前年からはじまっていたヒョンギさんとの英語の文通を唯一の楽しみに、耐えて、英語の問題集も開いた。
「人間の絆」「テス」などの本は、ヒョンギさんにすすめられて読んだのだった。

朴正煕が暗殺されて、民主化運動がいっせいに活発になったころ。ソウルの春、と呼ばれていたころ。そんななかで、光州事件が起こった。それは、民主化運動への弾圧、と見えた。独裁者が暗殺されたのに、なぜまた弾圧が繰り返されるのか、わけのわからない気持ちになった。それから光州事件で軍部の強権を発動した全斗煥が政権をとった。権力を手にするための虐殺だったのだろう、と、そういうことはあとからわかるのだが。

なぜこんな、悲しい事件が起きるのだろうと、思いながら、朝日ジャーナルの記事と写真を、ヒョンギさんに送った。帰ってきた返事にはこうあった。「日本にも北朝鮮のスパイがいて、そのスパイによって報道がゆがめられているのです。事件は北朝鮮のスパイの陰謀でしょう」

ヒョンギさんが、本当にそう思っていたのか、そう書かなければならないと判断していたのか、当時、光州は孤立させられていて、情報統制もされていたと、それもあとで知ることだが、ヒョンギさんのあのときの手紙は、権力のおぞましさに、触れてしまった感じがした。

「政治の話はやめましょう。もっと違う話をしましょう。」

ときどき手紙が届かないということがあり、2週間たっても返事がないと、何かあったのだろうか、それとも私がきらわれるようなことを書いたかしらと、泣きそうな気持ちになり、それからまた、手紙を書くのだった。ヒョンギさんからの手紙は、いつもかわらず、やさしかった。

それから私が大学に進学して、一方ヒョンギさんは徴兵で軍隊に入って、手紙のやりとりも間遠になり、音信も途絶えてしまった。

韓国に行ったのは、ヒョンギさんとの文通が終わった後だ。2年くらいはたっていたかもしれない。もしかしたら、終わっていなかったのかもしれない。何年か途絶えていても、でももしかしたら、私が一通手紙を送れば、それは届いたのかもしれない。
そういうことに思い至るのは、ずっとあとになってのことだ。

ヒョンギさんが、ソウルに遊びにおいでと言ってくれたとき、私は、外国に行くなんて想像もできない田舎の高校生で、とまどうだけだったのに、ヒョンギさんがいなくなってから、下関から船に乗って、私は2度、ひとりで韓国を旅行した。

高2から高3の1年間あまり、ヒョンギさんが2週間ごとに送ってくれた手紙は、当時の私にとって、とても深い励ましだった。

徴兵が終わったあとのヒョンギさんのことを知らない。結局一度も会ったことも話したこともないのだ。送ってもらった写真だけ、まだ持っている。