麦。

久しぶりに幼稚園に行った子は、麦を握りしめて帰ってきた。
幼稚園の畑に麦が実り、先週麦刈りだった。休んでいて麦刈りできなかった子たちが、今日麦刈りをしたらしいのだ。鎌で刈ったらしい。
10本ばかりもって帰った。
ただの麦だが。
なんてきれいなものがあるんだろうと、しばし見入ってしまった。


「紫陽」という詩誌に「わたしたちの路地」の書評。
「あらるところに路地が──野樹かずみ・河津聖恵『christmas mountain わたしたちの路地』を読む──宇野善幸」

書き出しは次のよう。

「コミュニケーションの回路を一つ、一つ抉じ開けることが詩人の大事な仕事なのだろう。もちろんそれは詩人だけが行っているのではなく、私たちが生きる中でごく日常的に経験している事柄でもある。私にとって、大事なコミュニケーションとは、意味伝達に特化するのでなく、単なるレトリック上の偏差でしかないような「実験的な」詩でもない、対話を通じて共に生み出す何事かなのだ。私がそう感じるようになったのは、藤井貞和の「母音」(『「静かの海」石、その響き』思潮社)という詩を読むことと、ボランティア介助者として障害者に関わるようになってからである。たとえば「ごはん」という言葉を聞き取るためだけに、本当に体全体が<耳>になる。私の身体が変容しつつ相手と共にイメージを生みだすことこそが重要なのである。私の中で倫理的ともいえるコミュニケーションの様式がはっきりと浮かびあがったのはこの時からである。私にとって詩を読むという経験が変質した。」

以下、河津聖恵という詩人の変容を軸に、書評がなされていくのだが、舞台になったゴミ山の学校のことなどにも、丁寧に目を通してもらっていて、それがとても嬉しい。

「たとえば「ごはん」という言葉を聞き取るためだけに、本当に体全体が<耳>になる。私の身体が変容しつつ相手と共にイメージを生みだすこと」
──これは、聞くこと、読むこと、書くこと、何より生きることの快楽とは何かを、語っているのではないか。たしかに、生きる喜びは、このようなことなのだ、と気づいた。

「わたしたちの路地」という本が、どこかに、そのような喜びをたたえることができていれば、幸福と思います。

それにしても「本当に体全体が<耳>に」なっているかどうか。
〈耳〉になったとして、次にくるものが喜びであるという保障はないかもしれないけれど、〈耳〉にならなければ、喜びは生まれない。
なんでもないようで、これは勇気のいることで、あのコラボの間じゅう、「ごはん」という言葉を聞きとってくれた河津さんに、私は感動していた。

「ごはん」という言葉を聞きとれる人間になりたいと思う。

とはいいながら、子どもが「ママー、おなかがすいた」と叫ぶまで、米研ぐことを忘れていたんであった。今日も。
もっとも、ちびさんの「おなかがすいた」には、(もっとお菓子が食べたい、菓子だけ食べたい、→ごはんは食べない)という、下心のものもあるので、これは要注意。