立てこもり

ちびさん元気に幼稚園に行く。12日ぶり。やれやれ。

夕べ、晩ご飯のころになって、いきなり、カレーがいい、と言いだした。(こねこちゃんがカレーライスをつくる絵本が目にとまったのだ)。いきなり言ったってカレーをつくる用意はしてない。
つくらない、と言ったら、泣いて怒ってすねた。

「ぼくの部屋」(実はみんなの寝室)の引き戸をピシャンっと閉めて、立てこもってしまった。開けると、またピシャンっと閉める。

あー、こういうのって、見憶えがあるよ。

ずーっと、後ろにしてきた光景が、はるか過去の方角に捨て去っていたものが、目の前に次々あらわれてくるようなのだ、ほんとにもう。

小学生の私は、玄関横の3畳の部屋にたてこもり、戸の前に、机や椅子を積み上げて、本やカバンや、そこらにあるものなんでも積みあげて、ランドセルの中身もぶちまけて、立てこもったものだった。
あとで、ひとりで片づけなければならなくなるのが、吐きそうなほどしんどいと、わかっているのに、そのときは、そう思ってさえ、なにもかも引っ張り出してひっくり返してしまわなければ気がすまないのだった。
で、なぜ、立てこもったのかという理由は、ひとっつも覚えていない。

ちびさん、まだかわいい。戸を閉めるだけだし。バリケードも築いてないし。(でも床一面に散らかして遊んでいる電車を片づけさせるのは、毎晩ぞっとする)。
戸の隙間から封筒が差し出されてくる。別に果たし状でも詫び状でもなく、そういうことをしてみたかっただけらしい。

結局、カレーは明日、明後日はお魚、その次はオムレツ、とか、献立を書きこんだら、それで納得して、部屋から出てきたけど。



ふるさとの記憶は、幼年時代と結びつく。幼年時代にそこにいたからふるさとなので、それは当然なのだが、離れて長くなると、帰省のときは親しい人の葬儀のときだったりして、ふるさとの記憶はやがて死者と結びついてくる。というか、死者の記憶が強くなる。
そんなわけで、離れて思うふるさとは、子どもの自分と、死者たちのいるところである。
けれど、子どもの自分も死者たちも実際にはすでにいないわけで、離れて思うふるさとと、実際のふるさととは、違うのだ。

で、実際に帰ると、帰る度に、子どもでも死者でもない、老いてゆくいっぽうの家族や親せきが、ぬうっとあらわれたりして、それがまた、妙にやさしかったりして、昔、喧嘩したり反発して故郷を出た私は、そのやさしさにいまだにとまどう。

とまどっているうちに、ひとり死にふたり死に、してゆくなあ。

帰りたいか帰りたくないか、もうよくわからんふるさとである。