落花生

「落花生ってなに」と子どもがきくので、こんなやつで、なかにピーナッツが2個入ってんの、と絵をかいていたら、それを見ていたおじいちゃんが、本物の落花生をたくさん買ってきた。
ので、毎日落花生食べている。

思いついて、落花生に顔かいてみたら、ちびさんが真似して、たくさんの落花生の兄弟ができた。顔のあるのは食べちゃだめ、というので、顔のある落花生か、顔のない落花生か、確認しながら食べるのが面倒くさい。顔のない落花生、のこりわずかになってきた。



たぶん。

想像力があるから、ものを書くのではないな。
むしろ、すっかり逆で、私の場合、想像力がないから、本を読むとか、ものを書くとかいうことをしていないと、うまく人間になってゆけないのかもしれないのだ。

遡れば、十代のころ、世の中があんまりわからなくて、困り果てて、書けば何かわかるかしら、と思ったのだった。ついでに自分の気持ちというものもよくわからないので、これも、何か書けばわかるかしら、と思った。わかったのか、よけいわからなくなったのかは、ともかくとして。ほかに手がかりはなかったし。

そういえば、結婚したらどうなるのだろう、とか、子どもが生まれたらどうなるのだろう、とか、そういうことも考えなかったし、考えられなかった。ので、結婚してみるしかなく、産んでみるしかなかったのだ。
それでもって、赤ちゃんを育てるのに何が必要かは、赤ちゃんが生まれてくれば、わかるんじゃないかと思うけど、生まれてこないとわかんないよ、みたいな感じだった。だって、実際に生まれてくるまでは、生まれたあとのことを、ほんとに全然想像できなかったもん。
もしもほんとに生まれたら、名前がいる、とは思って、名前だけ考えた。
産着は誰が買ってくれてたんだっけ。私じゃないことはたしかだが、幸い、生まれた子に着せるものはあった。

変化に弱いので、何かを楽しみに待つ、というようなことはできないのだが、それでも万物は変化するし、変化には楽しい変化もあるのだということは、変化そのものが教えてくれるなあ。

思うに、想像力に欠けることも恩寵ではある。
犬も歩けば棒にあたるし。想像できないから、ゴミの山でもどこでも、現場を歩くよりしょうがないし。なんかほんとに、棒にあたるし。しばしば転ぶ、にしても。