つづき

前の日記に、とてもありがたいコメントをもらったので、前の日記読んだ方は、ぜひ、あわせてこちらも見てください。

このような意見もあります。
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/94af3f5ece4af8e5bd75d557365ffef3
また、このような感想も。
http://www.hayamiz.jp/2008/07/post-70db.html

ありがとうございます。

たしかにあの書き方では誤解もありそうなので、いろいろ考えさせられたことの内容も書いておこう。

盗作か盗作でないかは、個人的な関心としては正直どっちでもいいし、それで『黒い雨』の価値がかわるものでもないし、幸い、日記の控えがあったらしく『重松日記』も出ているから、両方の作品そのものがおのずから語るからいいと思う。

で、豊田さんが何者であろうと(私は彼を知らないが)文学者の原稿よりも名誉よりも、被爆者の日記が大事、ということには同意する。
そういうところの倫理をはずしたら、どうののしられてもしょうがない。

もっとも、ののしっているのは第三者だし、重松さんと井伏さんの間に、問題がなければ、盗作であるかないかとか、どうでもいいんだが、ただ私に、つくづくおそろしく思われたのは、広島はこういうところだ、ということなのだった。

広島を相手にしたら、原爆の話なんて、そんなもんじゃないとか、あんたに話してもわからん、とか、ゴミ山の子どもの写真見て、原爆落ちたときはこんなもんじゃなかったとか、いやもう、こわいわよ。
そりゃもう当事者でないもの書きなんて負ける宿命だもん。書くことも喋ることも必ず裏切ることにしかならんもん。書いたら負け。

だから沼田先生が、修学旅行の小学生に向かって「おばちゃんの話を聞いてくれてありがとう」と頭を下げたのを見たときには、私は本当に驚いたのだったし、『天秤』を喜んでもらえたときには、ああ、書いてもゆるしてくれる人がいるのだと泣くほどうれしかったけど。
それはそれとして。

井伏鱒二が『黒い雨』を書いたのはたぶんなりゆきと思う。そのなりゆきを引き受けたのは、引き受けないことより当然なことで、それだから世界文学になってると思うけど、この広島という現場では、こんなふうにののしられるという(送ってくれた知人は、この文章を決して否定的にとらえていない)それほど現場はこわいと思わされた一文だった。


歌誌「ES蝕」の、谷村はるかさんの「ホゲタくつ下で読ませる戦争」というエッセイは、こうの史代「夕凪の街 桜の国」「この世界の片隅で」などを通して、漫画と戦争と表現の問題を語っていて、興味深かった。

 「誰かの「そんなもんじゃない」を承知で、それとひきかえに、多くの読者に読ませ、わからせ、思いを伝えるために描く漫画家たちの苦心──想像すると、少々粛然とする」

谷村さんも広島にいたから、もちろん、「そんなもんじゃない」という声に対峙しながらの作歌であったに違いないと思う。

で、そんなもんじゃない、と言える人たちがいなくなってしまう近未来を考えたら、盗作論争なんかみみっちいことだし、「そんなもんじゃない」の声におびえてもいられないのだ。
と思うけど、書きたくない、広島・ひろしまヒロシマ。 

社会詠のこわさって、こういうことと思う。うまく言えないけど、誰か言って。

で、私がいま広島にいるのはほんのなりゆきなんだが、心底おそろしいのは、なりゆきのほかに人生はないということなのだった。
それでもって、ある日、まったく予期しないときに、「私も原爆の生き残りじゃが」と話すお婆さんが、目の前にあらわれるということなのだ。