返すと盗作がばれる

井伏鱒二の「黒い雨」 
全文の97%が盗作(検証し決定)」

というタイトルの文章のコピーを知人が、知っておいていい情報だから、と送ってくれた。執筆者は、豊田清史、豊原国夫。次のような内容。

「(略)
この作品は言うまでもなく、重松、井伏、豊田の三人だけが深く関与したので、責任を感じながらも総括の意味でもう一文書いておく。
(略)
(この作品が、高校国語教科書から削除されたことの)原因は、作家にあるまじき、一口に言って盗作であった。私らが子細に調べたところでは、全文230頁の殆どが盗作と言わざるを得ないものであった。
(略。「山椒魚」その他の作品も盗作である、等の文)
 この作品は、すぐれた作家の眼をもつ、重松静馬の被爆日記が生かされて、読者を魅了する描写が多いが、奈何せん重松ほか、十六人の被爆者の手記が下敷きさながらに使われており、到底作者井伏の創作とは言えない。
 被爆記として出色であることは確かであるが、私らがこの作品を検証してみて、この殆どが盗作と言うことができるのであるが、日記の重松のことばでは「この作品の中で、小畠村のケンポ梨の老木に実が成っているところと、わしが被爆死者を焼くのに曹洞宗の経文で弔うのに、井伏さんが広島は安芸門徒真宗でぜっぴ白骨の文章に変えさせてくれ」と頑固に変えられた。この二カ所のみが井伏さんの文章で、あとはみなわしの日記をもじって書きなさったと言った。このように重松自身がはっきり言ったことを私らは今も忘れないし、又子細に検証しても嘘ではなかった。」

以下「黒い雨」成立の経緯が述べられ、「黒い雨」というタイトルも、最初の「姪の結婚」というタイトルを、重松自身が気に入らなくて、豊田が井伏に電話して、豊田のアドバイスで「黒い雨」に変えたということ、重松が井伏さんからもらった稿料は七万円、一方「黒い雨」の印税は二十億を超えていること、小説しての「黒い雨」への不満(「重松がどこまでも市民を助けようと石炭の貯蔵庫を歩くのに、井伏にはこの心はなく、たんに面白おかしく書いている」)、さらに中国新聞に連載された井伏鱒二の聞き取り記事の連載に、十か所ほど嘘があること、などが綴られたのち、

「そして、昨年九月、神辺図書館で、館長による「黒い雨」はどのようにして作られたのか発表会がもたれ、重松の婿養子が主話者として招かれた。そうして地元中国の紙面には「黒い雨」は重松と井伏の共同制作と述べ、これが報道された。これ以上社としても書きにくかったと思うが、私らにはやっと真相が明らかになったかという、四十年間これを検証してきた感慨が深かった。ただ井伏氏はふくやま文学館へ、自分が書いた原稿を寄贈しているが、これはいけない。あれほど重松が日記を使ったらわが子孫の為にも返してくれと、井伏氏に再三頼んだのに、井伏はついに返さなかった。それは私が言うまでもないこと、返すと作品の内実や盗作がみなばれるからで、井伏の原稿など作品研究書は市民の為に何の役立ちもしない。重松の日記原稿を返すべきである。
(略。井伏はひどい盗作作家である、という結論)」


これは新聞の記事かな。
平成14年1月28日

「克明に『黒い雨』誕生秘話
神辺で重松静馬氏遺族が初の発表

返すと盗作がばれる
井伏氏ついに日記を返さず
一緒に被爆者から聞き取り

 井伏鱒二の小説「黒い雨」の基になった「重松日記」を著した重松静馬氏の婿で、町教育委員の重松文宏(六五)が27日、神辺町のかんなべ町立図書館で講演会を開いた。「黒い雨」の成立過程を、静馬氏の遺族が公開の場で語るのは初めて。文宏君は「何度も手紙をやり取りしたり、一緒に被爆者から聞き取りするなど、『黒い雨』は井伏と静馬の共同作業だった」と語った。」

どう考えても、日記原稿は返すべきだなあ。文学者の原稿なんかよりは、はるかに大事だと思う。(文学者はそう思うべきだと思う。)
共著にすればよかったのに。 (これは重松氏が断ったらしい、という話もあり)
文学者への信頼を裏切られました、という話になってしまった。 (という話にされてしまった)
原稿を預けてくれた人の信頼を裏切ったら、それは作家として負けだろう、やっぱり。ののしられてもしょうがない。(裏切った、と言いたてているのはしかし、原稿を預けた当人ではない)
()内、あとから補足。このページだけ読まれたら誤解をばらまきそうだから。→つづきへ

いろいろ考えさせられた。

太平洋戦争開戦の日。