大晦日

メモ。
「洪水」19号に、蝦名泰洋さんが連句について書いている。

連句には駄句がないというはなしを聞いたことがあります。聞きまちがいだったかもしれませんし、記憶ちがいかもしれません。でもありえるはなしです。
 前の人が仮に駄句を付けたとしましょう。その句を次の人は輝かせるかもしれない。駄句同士を掛け合わせて輝かせるかもしれないし佳句で輝かせるかもしれない。この駄句には生きる道があるんだぞという意志が連衆には宿っている。座に参加した以上、他人の句を輝かせずにおくものかという気持ちが充満していたら、それではなしが終わってもかまわないくらい。
 どの参加者も、言うなれば過去に向かって希望が持てる、それも連句の特質だと思います。昨日の自分に向かって希望が持てる文学なんて世界広しと言えど日本の連句ぐらいでしょう」

昔、ドストエフスキーとか読んだときに、文学というのは、やさしい、と思ったことなどを、思い出した。登場人物はみんな、そこにいなければならない人たちだ。現実の世界では、いてはいけない人だったり、いなくなってほしい人だったりするような、悪人や愚か者や、こじれた難しい人たち、無力だったりみじめだったりする人たちが、物語のなかでは居場所がある。どうかすると主人公だったり、とても魅力的だったりする。文学というものには、凄いやさしさがある。
その凄いやさしさに、憧れたのだった。
そういうことを、思い出した。

憧れることは生命力がいる。他者を思うことも。その凄いやさしさのほうへ、私は歩いているかしら。

気づくともう、大晦日。どこかで立て直したい立て直したいと思いつつ、立て直せないまま、年の瀬になだれこんだかなあ。
言えなかったありがとうがたくさんあり、書けなかった手紙もたくさんあり、足りなかった何かがたくさんあり、ごめんなさいがたくさんあり、

奇跡みたいな日常もある。

田舎から、じゃこ天と蒲鉾とあげまきが届いた。助かる。これだけあれば、お正月は来ると思う。というか、私がすこし、お正月をしようという気分になれる。
大掃除はしないままだけど。

みなさまには、本当にありがとうございました。おかげさまで、楽しい1年でした。

今年の大みそかは、息子と編み物して縫物して料理する、予定。Cimg6396