春 思い出したことなど

気づけば3月。冬の間は寒いし、ひきこもるしかないし、怠けててもいいのだと思えるんだけど、あたたかくなってくると、なんか、それではいけないような気がして、間違って生きてるような感じがふつふつとしてきて、ひきつづき間違って生きますけど。
なんの罪滅ぼしでもないですが、近所歩いて、ふきのとう摘んだり。

クリスマローズ咲いた。

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父が亡くなって1年たって、帰省の理由がなくなったんだなと思ったりする。故郷からみれば、私はとうに幽霊みたいなもんだけど。

昨日今日、小学校の頃のことをしきりに思い出した。最近、地元出身の若い人たちが、とても活躍なのである。日本新記録とか。
子どものころ、郷里の人間模様にかなりうんざりさせられていたんだけれど、そんなものに足すくわれずに、伸びやかに巣立っていった若い人たちがいるというのは、なんかそれだけで、救われるような気持ちがする、と思う。
なるほどなあ、オリンピックの選手なんかを、地元の人たちが応援するのは、そういう気持ちかしらと、思ったりした。

で、思い出したので吐き出しとく。かれこれ半世紀前に、私が通っていた小学校は、荒んでた。小学生のくせに、煙草吸ったり、暴力事件起こしたりしてる男子たちいたし。……と思い出して、器物損壊は、私もやったわ、と思い至った。共犯みたいなもん。

4年生のとき。古いモルタル校舎の非常階段の横に、木造のまた、古いぽっとんトイレがあった。トイレは外にあったのだ。そんで、私たちのクラスの何人かが、放課後そこで遊んでた。何して遊んだかっていうと、非常階段からトイレの屋根に飛び降りることができたのだ。んで、男子たち数人と女子も数人、飛び降りて遊んでた。ガッチャマンごっこ。背中に羽があるから飛べるのだ。地面におりるのでは面白くない。屋根の上でとんでるから面白い。毎日毎日、日が暮れるまで、階段のぼる、飛び降りる、を繰り返してた。
すると、屋根はぺらっぺらっの瓦で、私は、とびっきり小さい軽い子どもだったから、平気だったけど、大きい子たちが飛び降りると、瓦が割れるようになった。最初に割れた音を聞いたときはどきっとした、と思う、みんな。でも、そのうちに、割れるのが楽しくなった、と思う。瓦の割れる音を聞きたくて、飛び降りるようになっていった。
体重が少なくて、瓦は、私の足の下では割れなかったんだけど。
そこで何か月も遊んだ気がするけど、もしかしたら、ほんの1か月か1週間2週間だったかもしれない。トイレの屋根がボロボロになってることに、とうとう教師たちが気づいた。子どもたちが放課後そこで遊んでいたという目撃情報も出てきた。心あたりのあるものは立て、と担任が理科室で言った。6人くらいいたかな。もうそこで遊ぶな、と担任は言ったけれど、叱られた記憶はない。まさか自分のクラスとは思わなかったと、言った。年取ったやさしい男の先生だったので、悲しませて悪かったなと思った。

6年のときの担任は、すぐ怒るのできらわれていたけど、今だったら、問題発言かもしれない。こんなクラスははじめてだ、クラスの3割が母子家庭だと言った(そんなこと、子どもたちに言うか、って話じゃある)。私たちにはそれがあたりまえだったけれど、貧困家庭も多かった。
たいてい、私も、人のお下がりや、親の服を縫いなおしたようなものを着ていて、新しい既製服を着ているとかえって目立った。卒業記念の写真を撮る日も、いつものように汚れたジャンパーを着ている子が多いことを、担任は、このクラスは常識がない、という言い方をしたんだけど(だからそんなことを、子どもに言うか、って話だが)、貧富の差のよくわかる卒業写真になった。卒業式でもないのに、いい恰好させなきゃいかんとか、親たちは気づかなかったと思うんだけど、ふだんどおりだわ。

人権教育がはじまって、水平社運動の映画なんかを見せられた。部落に改良住宅ができ始めたころで、そのせいもあったんだろうなと、今にして思うんだけど、部落にだけ特別に家をつくったり道をつくったりすることは、不公平か否か、という問いを、考えさせられた記憶がある。小学校6年だった。
改良住宅ができる前の記憶をかすかにもってる最後の世代だろうと思うんだけど、豚の匂いのする路地と、牛の匂いする路地があった。鶏の匂いはどこでもした。

フィリピンにはじめて行ったとき、ゴミ山のふもとの集落で、ゴミの匂いのなかに、豚の匂いと鶏の匂いをかぎ分けたとき、プルーストの「失われた時を求めて」のマドレーヌ現象が起こったんだけど、そういうことだった。私のマドレーヌは、豚と鶏の匂いだったのだ。
改良住宅、当時はまだ珍しかったコンクリートのアパート群も、いまはもう空き家だらけ。

せっまい世界だったのだ。中学になって、町なかの学校の子たちと一緒になったとき、文化の違いに震えたわ。ラジオとか、電話でのおしゃべりとか。
(電話のない家も多かったから、ある家は近所じゅうの呼び出し係をしなければいけなくて、子どもが自分のために使っていいようなものではなかったのだ)

きっと私はもう、郷里で暮らすことはないんだけれど、もしももしも、そこで暮らせることがあるとするなら、小学校のころの校区がいいな、と思う。ふしぎだけど。

そして春の庭先に、サクラソウを植えるのだ。