フリーズちゃん

「フリーズちゃんの名前をおぼえてる?」と、息子に聞いてみたら、彼は覚えていた。さすがだな。1週間ほど鹿児島に行ってて、夜、おはら祭りのあとで、コーヒー飲みながら。

フリーズちゃんは、息子が小学校2年のときの最初の担任だった。どこにも名前が残っていないのは、途中でやめてしまったから。

始業式の朝、電話があって、クラスメイトの悪ふざけで怪我をさせられた息子を学校に迎えに行って、病院に連れて行った。耳を切って出血していたが、たいしたことはなくてすんだ。病院から学校に電話をかけたとき、担任の、新任の若い女の先生は、電話の対応にもとまどって固まってしまったので、フリーズちゃん、とあだ名をつけたら、私、そのまま名前を忘れてしまった。

さて、クラスは、たちまち学級崩壊した。参観日のときも、親たちはらはらしながら、見ていた。ベテランの先生が教室に入っていたけれど、2人体制でも危うかった。私、見てるのが、ものすごくつらかったのは、フリーズちゃんが、昔の自分に見えたからだ。(塾のバイトに行くと、子どもたちが机の上を走り回っていて、どうしていいかわからなかったときのことを思い出したわ。塾、クビになったときは、ほっとした。)

聴覚過敏のあった息子は、教室の騒がしさは耐え難かった。同じバス登校の子らがかまってくるのも、いやだった。ランドセルを床に投げられたりするのが、いじめられてるということだと気づくまでに時間がかかったんだけど。

息子、フリーズちゃんを好きだった。シンパシーがあったのである。なんとなく、このめちゃくちゃなクラスをともに耐えている同志のような連帯感があったみたいだ。あのころ、教室がつらい、という気持ちを、誰よりもわかってくれるのは、たしかに、フリーズちゃんのはずだった。

ところが、夏休みが終わると、フリーズちゃんはいなかった。教師をやめていた。

それまでもそのあとも、いろんな先生に出会ってきたけど、この子はフリーズちゃんに救われたかもな、という気が私はしてる。学級崩壊の数か月をフリーズちゃんとともに耐えてきた彼は、その後のいじめにも屈しなかった。親しかった友だちが、次々と不登校になってゆくなか、学校に通いとおせたのも、もしかしたら、あのとき、フリーズちゃんのクラスだったからかもしれない。

というふうに思ったんだけどね、と息子に言いましたら、それは言える、それはそうかもしれない、と言っていた。

しばらく前に、小学校の若い先生と話してて、担任の1年生のクラスが荒れて、つらい、と彼は言ってて、それで、フリーズちゃんを思い出したんですけど。

人が、存在しているということの意味は、なんかはかりしれないことよ、きっと。

教室が騒がしいと、耳をふさいでいた子が、祭りの喧噪は、全然大丈夫で、花電車のあたり、うろうろ写真撮っていた。

花は霧島~♪