燕は戻ってこない

玄関先の燕の巣が、破れてぼろぼろになっている。最初は、もう8年くらい前なのか、「のど赤き」燕が巣をつくって子育てした。次の年も。その次の年は、どうだったかな。巣の中にわらくずを突っ込まれたりしてたのは、雀たちのいたずららしかった。

燕がそんなに軒低く飛ぶことを、それまで知らなかった。なるほどこんなに、軒低く飛ぶから、オスカー・ワイルドの「しあわせな王子」は、燕でなくてはいけなかったのだろう。屋根の下、窓の向こうで、誰がどんな貧しい暮らしをしているか、のぞくことができるためには。

ある年戻ってきた燕は、のどの赤くない燕だった。イワツバメという種類らしい。巣の補修をはじめたのが、変わった壺状のかたちになって、その壺のなかで子育てした。何羽育っているのかわからなかったけど、子育てして、旅だった。一羽、遅れて旅立った子燕は、大丈夫だったかな。
次の年に燕戻ってきて、また子育てするのかしらと思っていたら、一羽が巣の下で死んでいた。二組の夫婦が、巣を争ってけんかして、一羽死んだ。死んだ燕は、庭のすみの葉っぱの下に埋めた。連れ合いを亡くした燕はどこに行ったんだろう。勝った組が、子育てした。巣立ちの頃、真夜中に、消し忘れた玄関灯のあたりで、しきりに飛ぶ練習をしているのがかわいかった。

あれから燕は戻ってこない。巣に小さな穴が開いていたのが、穴すこしずつ大きくなって、いつかぼろぼろになるんだろうな。

向かいの森は、空き家になって30年か35年くらいになるのかな。10数年前までは、持ち主の遺族がたまに、木の伐採や片付けに来ていたけど、もう来ない。鹿たちの遊び場になっている。

鹿たちいい気になって、空地の畑も荒らし尽くした。それでも鹿の背丈よりすこしだけ高くなっていた合歓の木は、ぐんぐん育って、今年もきれいな花を咲かせていた。

偶然目にしたドラマで、
主人公の、北海道から出てきて、東京で月手取り14万円でアパート暮らししている女性の、「腹の底から、金と安心が欲しい」というセリフが、共感を超えるほどの共感で、なんか笑ってしまって、結局そのドラマ、楽しみに見続けることになってしまった。「燕は戻ってこない」。

私、年間100万くらいで、東京でひとり暮らししてた。もう25年くらい前だけど、たった昨日のことみたい。エアコンないから、夏は仕事に行くのでなければ(仕事は行けば行ったでひたすらしんどい)身の置き場がなかった。暑くて眠れない夜はファミレスに行くとか、でも店内は冷えすぎて、そんなに長居もできないのだ。

いまみたいにこんなに暑かったら、きっと死んでる。大家のおばあさんにも私にも、部屋にエアコン入れる余力はなかったし、私にもっとましな部屋に移る余力もなかった。おばあさん、もう死んでしまった。いまはおばあさんの甥がひとりで生活保護で暮らしているらしい。アパート部分はとうに廃屋。

あの二階の片隅の部屋で、たたかったんだよ。お腹すきすぎて、アパートの階段のぼる足がふるえたこと。盗まれた自転車。窓に蜂の巣ができたのを、叩き落したときの戦慄。
出ていくとき、おばあさんがさびしそうにしてくれた。私も戻らない燕だったのだが。

 

ドラマは面白かった。人間が、こんなふうなエゴイズムのやりとりで生きているなら、正しいも正しくないもないわ。人間関係は互いのエゴイズムのすり合わせで、論理も倫理も半端なままで、それぞれに正当化をする、善意で飾る。いいんだけど。この世のうんざりをよく眺めることができて。このうんざりから抜け出すためには、どうすればいいのでしょう。

えぐいなあ、と思うばかりのドラマのなかで、貧困から代理母を引き受けるという、主人公の動機だけが理解できた。
フィリピンで、ずいぶん前だけれど、ニュースで、マニラのスラムで腎臓を売る人たちのことを取り上げていたのを見たことがある。ことを思い出した。