ざあざあ降りの雨の夜は

軒下の岩燕。早朝と夕方、ジュクジュクツピーと巣の中でさえずっている声が聞こえるんだけど、ほとんど姿を見せない。巣から顔を出しているのが、ようやく撮れて、このあと親燕が空から帰ってきて、もぐったと思ったら、勢いよく飛び立っていった。1、2、3羽。もう巣立ちかしらと思ったら、そのあとも、巣のなかで、ときどき鳴いているし、糞も落としているから、まだまだ絶賛子育て中、なのだろう。

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夜に雨が降ると、そして雨が続いているのだが、畑には鹿が来る。張り巡らした網を越えてくる。網を、二重にする、段違いにする、迷路にする、いろいろやってみるんだけど、力づくで越えてくる。かと思うと、軽やかに飛び越えていたりする。鹿子、つよい。

鳥よけの網をかぶせていたので、ブルーベリーは実って、毎日摘みに行くのが、まあまあ楽しい。

それにしても、長い梅雨。

読書。ジャコモ・レオパルディ「断想集」は面白かった。

「私は決して人間を憎むようにはできておらず、むしろ人間を愛するような性格であった」「経験というものがほとんど暴力的と言っていい形で私を納得させた」

「世間とは立派な人間たちに対抗する悪人どもの同盟、あるいは寛容な人たちに対する卑怯者どもの集まりだということである」
「悪事を働く人間は、富、名誉、そして権力をその手中に収める。それに対して悪事を指摘する者は絞首台に連れて行かれるものだ」

 「服従と依存の感情」「自分自身の主でいられないという感情」

「あらゆる事柄に関して世間とうまく渡り歩くことのできない人間がままある」「変わることのない自らの性格ゆえに素朴な立ち居振る舞いを放棄できないことに起因している」

 「自己中心主義が蔓延し、人々が他人に対して非常に強く嫉妬心と嫌悪感を抱いている時代である」

「自分に襲いかかった不幸のせいで、あたかも社会の中で身分を落とした人間になり果て、何らかの大罪を犯した罪人であるかのごとく世間に見られ、友人の評判を失うのを見ることになる」

 「われわれの習性は自分自身がされたくないことは他人にもしてはならないという教えに反しており、また他人についてはどれほど自由に話しても罪なきものとみなされる。そしてそれは筆舌に尽くしがたいほどに甚だしい」

「自分自身を大いに体験しない限り、人は大人にならない」

「人間は、実際の自分と違うものになろうとしたり見せかけたりしない限り滑稽ではない」「いかなる不幸な性格にも、どこかに醜くない部分が存在している」

「誰も苦しんではならないし、おまえは不幸だとか不運だとか面と向かって言われるべきではない」

「いかなる不幸に遭遇したとしても、堅固で確信に満ちた尊敬のまなざしを自分自身に向けること」

「優れた価値を有する人間は、大体みな素朴な振舞いをする。そして、素朴な振舞いは大体いつも低い価値を示すものとみなされる」

 

解説によると、

イタリアの詩人・哲学者ジャコモ・レオパルディ(1798~1837)の絶筆の書の全訳。イタリア人に最も愛されたイタリア詩人のひとり。19世紀イタリア。実存主義の先駆者。脊柱側弯症を発症。常人離れした学才と容姿は彼を他人から遠ざけた。

人生や世界が矛盾に満ちた存在であることをそのまま認識する。世界の矛盾と人生の虚無に激しく苛まれた。諧謔的思考。などなど。

彼が試みたのは、東洋の言葉で言えば、如実知見、なのだろう。

 

読書。息子が友だちから借りてくる「ひぐらしのなく頃に」をえんえんと読み継いでいる。繰り返される猟奇事件(こわいからいやなんだけど)の世界像がようやくすこしわかってきたわ。この本の何が面白いんだろうと思いながら、えんえん読み続けてきたんだけど。
運命は、金魚すくいの膜のようなものらしい。たやすく破れるものでもあるそうですよ。でもその薄い一枚の膜を破れなくて、地獄の惨劇があるのだった。

トニ・モリスンの「パラダイス」という小説を思い出した。傷ついた女たちが身を寄せた教会で起きた虐殺の物語だったと思うけど、何が欠けていたか、というと、やはり、如実知見なのだろう。それができなくて、殺戮の舞台になる。パラダイスでもあり得た場所が。

ありのままを認識することも、恐れなく自由に思考することも、思いのほかにむずかしいと思う。

☆ 

夏休みは、10日ぐらいしかない。帰省するつもりだったけど、どうしようか。  

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