CD尹東柱詩集

いくつかの言葉、いくつかのフレーズを、自分の声のように聴いてしまったのだが、それはなぜだったんだろうと思うと、そのとき詩は、あるいは詩のようなものは、私の「いま、ここ」を内側から言い当ててくれていたからかもしれない。

18歳のときに読んだ、小松川女子高生殺人事件で死刑に処された在日朝鮮人二世の犯人の少年、李珍宇の手記のなかに、「世界がヴェールの向こうにしか感じられない」というような言葉を見つけなかったら、人生は全然ちがっていたかもしれない。
私の卒論は、在日朝鮮人文学ではなかったろうし、韓国人被爆者の証言をきいてまわったりもしなかったろうし、釜山やハプチョンに行ったりしなかったろうし、尹東柱を読んだりもしなかった。

だから、私の知らない、すでに処刑されていたひとりの殺人犯は、いまの私の形成に関与しているのである。
育った時代も環境も民族も違うのに、あの少年の手記へのはげしい共感はなんだったのだろう、といまでも不思議なのだが。

いつだったか、戦後の少年犯罪に関する古い映像がテレビで流されて、李珍宇はなんだか薄笑いをうかべていて、一緒に見ていた年配の女の人が、「ああ、人を殺してわらってるなんて、なんておそろしい」と言ったのを覚えているが、外から見られている自分と、自分が感じている自分とのちがいを、もうどうにも把握できなくなったら、へらへらするよりしょうがないような、あれははにかんだ笑顔に見えた。
私は母の葬儀の朝に笑っていて、兄にたしなめられたことを思い出したけれど。「まわりがへんに思うからさ、葬儀の間は笑うなよ」

尹東柱の「序詩」は、高校生のときに読んだT・K生の「韓国からの通信」に引用されていたのだった。詩人の名前は覚えないまま、詩を覚えた。

 死ぬ日まで空を仰ぎ
 一点の恥辱(はじ)なきことを
 
それから10年ぐらいして東京で暮らしはじめたときに、東柱の「たやすく書かれた詩」を思い出して、泣いてしまったことがあった。

 窓辺に夜の雨がささやき
 六畳部屋は他人の国、

夜に雨が降っていて、私はひとりで六畳部屋の真ん中で、うずくまっていた。
私は結婚して東京に行って、外から見れば、なんだかめでたいことだったんだが、だからそれはそう思うべきなのだろうと思ってはみるんだったが、私自身は、それまで経験したことのない孤独のなかにいた。ふたりでいるというのは、ひとりでいるより、もっとこわくてもっと不安なことだ、でもそれがなぜなのかわからない。

山中智恵子の
「黙ふかく夕目にみえて空蝉の薄き地獄にわが帰るべし」
の歌を思い出して立ちつくしたのもその頃だった。

結局なにがなんだかわからないまま2年後に離婚したんだけど、あのとき結婚も離婚も、外から与えられた言葉であって、私の実感とはかけはなれていることが、とても不思議だった。結婚したというしかなく、離婚したというしかないのだが、それは私の内側には全然ふれてこない言葉だったのだ。言葉のわからない国で、生きてた。

たしかなのは、「薄き地獄」に住んだこと。「六畳部屋は他人の国」だったこと。

で、そんなことを思い出してしまったのは、「尹東柱詩集」のCDを聴いたせい。25編の詩を日本語とハングルで朗読したCDが出たときいて、買ってしまった。ハングルは、かろうじて昔覚えた「序詩」が聞き取れるだけで、わかんないが、このふたつの言葉の間に、詩と人生があったということに、今さらながら、気づいたりする。
伊吹郷の訳。詩集で見落としていたフレーズなんかが、ふっと、耳にとまったりする。

 春がきた朝、ソウルの或る小さな停車場で
 希望と愛のように汽車を待ち、
 (略)

そうして日本に来た詩人を、この国は獄死させたのだなあ。