「美しい人」

韓国のフォークシンガー、キムミンギの1972年の曲

http://www.youtube.com/watch?v=Z36W6l8bbls&feature=player_embedded#at=40

 美しい人

暗い雨が降ってくれば軒の下に
一人の子供が泣いて立っているよ
そのきれいな二つの目に雨水が溜まれば
そうだ、美しい彼は人となるでしょう

激しい風が吹けば原野に
一人の子供が駆け付けるよ
その熱い胸に風を抱けば
そうだ、美しい彼は人となるでしょう

真っ白な雪が降ってくれば山の上に
一人の子供がそびえ立っているよ
そのきれいな心に歌が響けば
そうだ、美しい彼は人となるでしょう

 美しい彼は人となるでしょう



韓国語はわからないが、検索で出てきた日本語の歌詞にしびれた。
「美しい彼は人となるでしょう」
彼は美しい人でしょう、ではないのである。「人となる」の条件として、「美しい」ということがある。となるとそれは、単なる形容詞を超えて、「真善美」とか「美利善」とかの価値体系、哲学につながっていく「美しい」である。

今朝、喧嘩をしていたときにパパが言った。「be動詞は哲学だぞ」。
それで、「美しい彼は人となるでしょう」というこの詞を私は思い出して、ようやく、パパが何を言おうとしているかを、理解した。

つまりこういうことです。あの店のママのお好み焼きがおいしいのは、ママが、お好み焼きを焼く「人になっている」からです。ほかの人が同じ材料を使って、同じようにつくってもママほどおいしくないのは、その人が、お好み焼きを焼く「人になっていない」からです。
あなたが書いたものを、もしもほかの誰かが好んで読んでくれるとしたら、それはあなたが、ものを書く「人になっている」からでしょう。

で、パパが不満を爆発させていたのは、私が、掃除をする「人になっていない」ことなのだった。
掃除をするかしないか、掃除の仕方が気に入らないとか、そういうことを言い出すと、こちらにはこちらの言い分があるし、他人のすることなんておおかた気に入らないに決まってるんだから、喧嘩にしかならないし、いちいちうるさいとしか思わないし、ひたすら不毛なんだけど、

もしも掃除する「人になっている」のであれば、当然気づいてしかるべきことを気づかないで平然としていられるっていうのは(子どもがかわいそうだろう)、あなたが、掃除をする「人になっていない」からだ。
何かのまちがいのように、たまに掃除をするということと、掃除をする「人になる」ということとは違うのである。

ごもっとも。

be動詞は哲学なのである。
「人となる」のは難しいのだ。

掃除機こわいし。