死の灰の雨降りやまぬ

 死の灰の雨降りやまぬ地に生きていいえ憎んだことがありません  野樹かずみ

って短歌が、ふいに耳によみがえってきた。たしか新人賞の受賞作のなかにあったはず。「路程記」の一連。なぜ歌集に入れなかったのか記憶がないんだけど、20年の歳月を超えてきたからには、今度復活させよう。

気づけば本、この5年の間に共著もあわせて4冊出してるんだと気づいて驚く。ああ、そりゃ、へそくり消える道理だ。
それで本出したはいいんだけど、出すと、たちまち逃げ出したい気持ちになります。で、そのせいで、お手紙にすぐにお返事できなかったりするので、不義理をしていることもたくさんあるかなと、思います。この場をかりてごめんなさい。もうすこし、落ち着いてから、あとでお返事しようと思っているうちにできないままになってしまう。

『もうひとりの(以下略)』に、お手紙とかメールとか、書評とか、心のこもったメッセージをくださったみなさま、ありがとうございます。お返事できないままでいるんですけど、とても励まされています。
歌集なんか出すより、パアラランの子どもの給食費にあてたほうがずっとましかもしれないよ、人道的にどっちがましよ、と考えたら、隠れて弁当食べてるみたいにうしろめたい。
でも読んでいただけたんだとわかると、歌集を出すということも、そんなに愚かなことをしたというわけでもないのかなと、いや、愚かであってもいいんですけど、多少は救いもある愚かさであるかなと、いやほんとうに、救われるような気持ちでいます。
心からありがとうございます。



死の灰。ビキニの水爆実験で汚染されたロンゲラップの人たちが、30年以上過ぎて、3代にわたってつづく健康被害に耐えかねて、故郷の島を捨てる決断をしたときのことを、最近また思い出すけれど。

ロンゲラップの人たちに対する米政府の態度は非人道的だし、まったくひどい。そして、いまこの国の政府が、アメリカ政府よりましな政府かどうか私にはわからない。
信じるに値する政府だとどういう理由で思えるのか、さっぱりわからないのが困るのだ。だいたいもう、これだけ公約を反故にできれば、嘘つきってののしられてもいいと思うよ。
だからいま、原発の問題でも、子どもに対して、IDRPの基準の20ミリシーベルトという数字をもちだしてきてるのは、子どもたちのためではなくて、それが政府にとってより都合のいい数字だからなんだろうとしか、思えないし。
メルトダウンはしない、チェルノブィリのようなことにはならないって、聞いたような気がするのは、何かの空耳だったろうか。

原爆投下のあと、10年も過ぎて若い人たちが次々に死んでいったというような光景を、まさか10年後に、もう一度見たりしないですめばいいなと思います。

1年半ほど前に、イラク戦争で落とされた劣化ウラン弾の被ばくの被害にあった子どもたちの写真を広島で見た。先天性の奇形や、癌化した細胞で肉体がそのかたちを崩していくような皮膚のただれや、見るからに痛ましかった。

 (なぜわたしでおわりにしないかしないならわたしのくるしみはなんのためか)
                 野樹かずみ『もうひとりの(以下略)』

という歌がそのとき胸に湧いた。傍らに、ほんのさっき子ども時代に被爆したことを語ってくれた人が、立っていたからかもしれない。

日本の避難区域は、チェルノブイリより甘い基準となっているとか、食物の基準もチェルノブィリのときにかけた輸入規制の数値より甘いというのも、それでいいんだろうか。それでいいと、そこに住んでいる人たちは納得して、そうなっているんだろうか。

 (なぜわたしでおわりにしないか)って、今度は、チェルノブィリの人たちが、フクシマの人たちのことを思うようになったりしないだろうか。

すこしぐらい汚染されてても大丈夫、農家の人たちを助けるためにほうれん草食べよう、って、大人は言ってもいいし、食べたきゃ食べてもいいと思う。

でもそんなことを、子どもたちに言わせたら、おしまいだと思う。

キャベツ畑のおじいさんのことを思いだす。この事故は、子どもたちに安全でおいしいキャベツを食べさせようとがんばっていた人を、まず自殺させたのだった。