『チェルノブィリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ から ④

チェルノブィリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ から


第三章
悲しみをのりこえて(つづき)

──党地区委員会 元第一書記

「私は昔の人間なんです。いまではわれわれをこっぴどく非難するのがはやっておる。非難しても身の危険はないのです。(略)あなた方は(略)新聞に書いておられる。共産主義者が国民をだまし、真実をかくしたのだと。しかしわれわれにはそうする義務があった。中央委員会や党の州委員会からの電報で、われわれは課題を与えられたのです。パニックを許すなと。」

「私が犯罪者だというのなら、私の孫はなぜ…。孫は病気なんです。(略)妻がいう。「娘と孫を親戚に預けなくちゃ。ここからつれだしてちょうだい」。私は党地区委員会の第一書記でした。そんなことはぜったいにできんといいました。「私が、自分の娘と生まれたばかりの孫をよそにつれていけば、住民はなんと思うかね? 彼らの子どもはここに残っているんだ」。」

「あなたはお忘れなんですよ。当時、原子力発電所は未来だったのです。われわれの未来だったのですよ。
 私は昔の人間なんです。犯罪者ではない。」

──核エネルギー研究所、元所長

「連中が心配しているのは住民のことじゃない、政府のことです。政府の国であって、住民の国じゃないのです。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しいのです。(略)上の怒りを買うことのほうが、原子力よりもこわかったんです。だれもかれもが電話や命令を待つだけで、自分ではなにもやろうとしませんでした。」

「もし、ふたたび爆発すれば、同じことがくり返されるだろう。この国は、いまもなおスターリンの国家です。スターリン時代の人間が住んでいるんです。」

──モギリョフ女性委員会「チェルノブィリの子どもたち」代表

「人が朝早く起きる。そして、考えるのはその日のパンのこと。永遠についてじゃない。それなのに、あなたは永遠について考えさせようとなさる。あらゆるヒューマニストがおかすあやまちです。
 チェルノブィリとはいったいなんでしょう?」

「40年後、みんなが戦争のことを話しはじめ、あの戦争がなんだったのか理解できたのです。それまでは生きのび、再建にはげみ、子どもを生んできました。チェルノブィリもそうなんです。わたしたちはいつかチェルノブィリにもどってくるんです。そのときには、チェルノブィリがなんだったのかもっとはっきりし、チェルノブィリは聖地になり、なげきの壁になるでしょう。いまはまだ解き明かす公式がない。理念がないのです。」

「そう、私は党員ではありませんが、それでもやはりソビエト人なんです。「どうして今年のラディッシュの葉っぱはばかでかいのかしら? ビートの葉っぱみたい」と不安にかられても、その夜テレビをつけると「扇動に躍らされないでください」といっている。それですっかり疑いが消えてしまうのです。」

──子どもたち

「あたしはぜったいに死なないんだと思ってたわ。でも、いまは死ぬんだってわかってるの。いっしょに入院していた男の子がいたの。あたしに小鳥や家の絵を描いてくれた。死んじゃったの。死ぬのはこわくないわ。ながーく眠っていて、ぜったいに目が覚めないのよね。」

「ぼく、聞こえちゃったんだ。おとながひそひそ話していた。おばあちゃんが泣いていた。ぼくが生まれた年には(1986年)ぼくらの村では男の子も、女の子もひとりも生まれなかったんだって。ぼくひとりだけ。お医者さんは、ぼくを生んじゃいけないっていったんだよ。ママは病院から逃げだして、おばあちゃんのところにかくれた。(略)
 おしえてください、ぼくがいなかったかもしれないって、どういうことですか? そしたら、ぼくはどこにいるんですか? 空の高いところ? ほかの惑星?」

「ぼくは毎晩飛びまわる。明るい光のなかを飛ぶんです。これは現実でも、あの世でもない。これは現実でもあり、あの世でもあり、もうひとつの世界でもある。(略)
 昨日、母は病室にイコンをかけた。あのかたすみでなにかつぶやきながら、ひざまずいている。みんななにもいわない。教授も、医者も、看護婦も。ぼくが気づいていないと思っている。もうすぐ死ぬということを感づいていないと思っているんです。みんなは知らない。ぼくが、毎晩、飛ぶ練習をしているのを。(略)
 いまでは、空はぼくにとって生きたものです。空を見あげると、そこにみんな(死んだ子どもたち)がいるから。」


孤独な人間の声

──事故処理作業者の妻

「夫はどこ? とてもぜんぶはお話できない、すべてを話すなんて無理だわ。どうして私が生きていられるのか、わからない。」
「彼は長い間苦しんで死んでいった。」
「遺体安置所から二人の看護人がつれてこられた。彼らはウォッカを飲みたいといった。「おれたちはなんでも見てきた。大けがをしたのも、傷だらけのも、火事で死んだ子どもの死体も。だが、こんなのははじめてだ。チェルノブィリの被災者はいちばんひどい死に方をするよ」」
「私から夫を奪ったのはだれなんですか? なんの権利で? 召集令状が持ってこられたのは1986年10月19日のこと。戦争の召集令状のようでした。」