縮み志向の日本人

ヒロシマナガサキを考える」という冊子の、金信煥さんの文章「在韓被爆者への支援」に次のようにあった。

「これは、結論的に言うと、梨花女子大学の李御寧(イ・オニョン)教授の『縮み志向の日本人』という本に集約できます。日本人はことごとに「縮み志向」で、抜本的な解決をするよりは、その場しのぎにちょっとだけやる、ということです。」

韓国原爆被害者への日本政府の補償について、書いてあるくだりだけれども。根本的な解決を先送りにして、「その場しのぎにちょっとだけ」というのは、最初っから逃げの姿勢なんだよね。

『縮み志向の日本人』は学生の頃に読んだ。引っ越しのときに売っていなければ、どこかに本があるはずだけれども。
たしかに万事、そのようだ。 

朝鮮学校の高校無償化除外とか、補助金を出さないということで、今さらながら気がついたのは、この国にはそもそも、民族教育というものに対する考え方がないということでした。

だからもう、ずぶずぶになる。どこへ向かってもの言っても、受け取る側の頭のなかはからっぽなんだもん。

だから、国際的な人権機関が何言おうと聞く耳がないし、当事者も日本人も、意をつくして言葉を尽くして、抗議し陳情し、説明しても、「それは学者たちのサロン的な言い分だ」と橋下あたりは一蹴してしまえる。
日本の教育要項に従うなら金を出す、従わないなら出さないっていうことなら、そもそも民族教育の意味がないのだということを理解できないとしたら、話のしようもない気がする。

民族教育というものに対する考え方がないままで、「その場しのぎにちょっとだけ」出してきた補助金なわけで、人道上出さなきゃいけないだろうかと思って出してきたけど、もしかして、出さないという選択もありなら、出さないにしよう、拉致のこともあるし、理由は何でもつけられる。ということなんじゃないのかな。
(でも拉致問題のときには補助金出さないということにはならなかったのだから、今思いついたから今出さない、ということなんだろう)

とにかくいつか、根本的なところで、民族教育、民族学校の権利についての、きちんとした考え方ができて、その理念に基づいて、法律に守られて、経済的なことも保障されていく、という、しごくまっとうな方向にいかなければ、政治や国民感情の都合で、恩恵を与えられたり奪われたり、ぐちゃぐちゃに扱われる、というのはかわってゆかない気がする。
それで、だめになっていくのは、ほかならないこの国だと思う。

司法、行政、立法、教育、の4権分立にするぐらいの大胆なことをしないと、教育の権利を考える、ということもできないんじゃないか。
そうして、その場しのぎの「縮み志向」の、縮んだしわ寄せは、弱い方に行くのだ。

浜岡原発の停止申し入れも、原発行政をどうするか、という根本的な話には行かないのだね。浜岡だけ。「その場しのぎにちょっとだけ」。



子どものピアノが届いた。いるんだって。夏はコンクールにも出るんだって。電子ピアノ。こういう楽器があるのは助かる。ふつうのピアノは重くて高くて、買えません。

その場しのぎの人生なので。私たちも。