スカイツリーとアイデンティティ

Img_3559 東京でスカイツリー見にいったら、雪でみれなかったんだけど、昨日、療育に行ったら、紙製のりっぱなスカイツリーがあった。

ここは、身体障害、知的障害、発達障害のいろんなデイケアのクラスがあって、入り口に、つくった作品を展示してあったりする。紙工作のものすごく上手な自閉症のお兄さんがいて、そのお兄さんのつくった電車や車やバス(縮小もいいかげんじゃなくて正確らしく、きれいな仕上がり)に、子ども、3歳でここに通い始めたときから魅了されているのですが、たぶん、このスカイツリーも、そのお兄さんがつくったんじゃないかな。
ほんとにすごい。

子どもが、診察室で医者さんに「しばらく来てなかったし、久しぶりだと思ってね」って言ったのが、なんであんなにおかしかったかって、なんかまるで、久しぶりにやってきた飲み屋で言うみたいな挨拶だったからだけど、考えてみれば、以前の療育仲間も、もう診察に通ってる子はすくないし、療育をきらいな子も、不信をもつ親もいたけど、私の子は、いつでも療育大好きだった。

それで、彼が3歳からずっと、楽しくここに通いつづけられたのは、名前も知らないお兄さんの、この見事な紙工作のおかげでもあったなあ、と思う。
来る度に、どれだけ長いこと見とれていたことか。今では自分でもせっせとつくっているが、いかんせん、この緻密さ、丁寧さには、ほど遠く。
この子ども、定規でまっすぐな線を引く、というのからして、むずかしいもん。

☆☆

ルポルタージュ部落」という本を読んでいる。部落解放とか、同和教育とか、1970年代くらいかな、子どもの頃、身の回りでもよく耳にした。小学校で親へのアンケートを持って帰ると、部落への考え方への質問が書いてある。選択肢のなかに「寝た子を起こすな」というのがあって、その慣用句は、そのアンケートを見て覚えた。
差別がある、それはやめよう、と声をあげると、ひそんでいた差別まで、あらたに巻き起こってくる。

朝鮮学校の無償化除外が、さらに補助金停止にまで拡がってきたのも、同じ構図だと思う。
だから黙っていよう、と思うか、でもやっぱり差別はいかんもん、前へ進もう、と思うか。

寝た子は起こすな、の立場には立たない。寝た子は起きるんである。起こさないでいるうちに差別はなくなるかって、なくならん。

いろんな葛藤をかかえながらも、当事者たちが「部落民とは何か」「自分は何ものか」「なぜ差別されるのか」「差別とは何か」と考え始める、学んでいくなかで、自尊心をとりもどしていく姿は、気持ちがいい。

以前、朝鮮学校に取材に行って、民族教育の意味についてきいたときに、校長先生が次のように答えて下さった。
「民族教育の目的は人間育成です。立派な人間を育てたい。自分は何ものなのか。自分のアイデンティティを大切にすることで人間としての軸ができる。主体性を持った人間になれる。自分の存在を見据えることは人間形成にとって一番大切で、それができて根っこがしっかりすれば、何があってもあまりぶれない、一人間として立派に育っていくと思うんです。」
(李一烈校長先生)

それはたぶん、教育の根っこに普遍的にあるべきもので、被差別部落の解放教育とも、ゴミ山のスラムのフリースクールで、レティ先生が語っていたこととも、発達障害児の療育の意味とも、響き合う。

なんだかとても心強い気持ちになった。