何がおもしろうて

何日か前、新聞の方面版の片隅で、偶然に見かけた。
その名前に覚えがあった。女の自治会長さんが、地域の活動でがんばっていますっていう話だったんだけど。
日本名だったけど、覚えている。いや、覚えていなかったけど、思い出した。間違ったりしない。昔、韓国人女性被爆者の証言の聞き書きをしたとき、取材させてもらった人だ。一番若かった人。
お元気そうで、今いる場所で幸福そうで、うれしい。

あれは没になりそうな原稿だったのだ。被爆当時3歳で、本人は記憶がないし、家族の歩みの大変さは、彼女のお母さんから聞いていたから、それですむんじゃないの、というふうになりそうだったんだけれど、書き起こし原稿で一カ所だけ、ものすごく気になったところがあって、私の担当ではなかったんだけれど、再取材するから、没にしないで欲しいとお願いして、何度か取材に通って、原稿まとめたんだった。
気になったところというのは、子どものころ、チョーセンといじめられるし、泣いて帰れば怒られるし、体は弱いし、勉強もできないし、ぐれて、毎日遊び歩くようになって、夕方帰ってきて、川に、住んでいたスラムの灯りが映るのを見て、ここの人ら何がおもしろうて生きとるんじゃろう、と思った、というところ。

ここの人ら何がおもしろうて生きとるんじゃろう。

私の声かと思った。
高校まで暮らした故郷の、くさいきったない川を思い出した。川に長屋の灯りがうつるのや、浮かんでいるゴミを眺めながら、歩いた。
何がおもしろうて、生きとるんじゃろう。ここの人らも、私たちも。

あのころ、家に帰るのが、ふるえるほどこわかった。家が見えてくると、戦前から建っていたらしい傾いたボロ屋だったけれど、絶望感がこみあげてくる。ほかに行くところもないから、帰るよりしょうがないが、家のなかに入るのは、脅えたケモノの腹のなかにはいっていくような感じがした。
兄が博打なんかするせいで、毎夜毎夜、サラ金のいやがらせの電話は30分おきにかかるわ、ヤクザは取り立てにくるわ、怒鳴るわ、脅すわ、母は、玄関で土下座するわ、兄は真夜中すぎて、ようやくしずかになったころに、こっそりかえってきて、受験勉強で起きている私に、
「かずみちゃん、おなかすいた、おむすびつくって」などという。
とんでもない日々だった。

何がおもしろうて、生きとるんじゃろう。

私が言えなかった私の声を、ものすごくそのとき聞きたかった。

人体実験にされるのはいやだといって、ABCC(放射能被害を調査したアメリかの機関)に絶対に行かなかったお兄さんが自殺したこと、その後自分が妊娠したとき、死んだ人のかわりに生まれるいのちかもしれんと思って、産む決意をしたこと。そういった話を、私はずっと忘れていたと思うんだけれど、自分が子どもを産むことになって、ふいに思い出した。彼女はきっと死者に励まされて産んだのだ。
そうして私は思い出した彼女の体験に励まされた。

そういうふうに励まされるということがなかったら、こわくてこわくて、子どもなんか産めない、と思う。私はそんなおそろしいことは絶対にできないと思っていた。取り返しつかないということにおいて、自殺よりも恐ろしいのは子どもを産むことだった。子どもだって、どうせ生まれてくるんなら、もっとましな親を選べばいいのだ。

「どんなに業いらしても」って彼女は言ったのだ。どんなに面倒をかける子どもであっても、死んだ人のかわりに生まれてくるんだから、後悔はせんと思った。
「業いらし」って言葉はそのときはじめて聞いたので、印象的で覚えている。産む覚悟ってそういうことか、と思った。そういうことも思い出した。
覚悟の仕方がわかれば、むやみにこわがらなくてすむ。

でも、どっちかっていうと、私を母親にした子どもの覚悟のほうがすごいと思うけど。

何がおもしろうて、生きとるんじゃろう、と思った女の子は、生きていることを面白くすることができるようになったんだなあと、小さな文面から伝わってきて、うれしかった。

きっともう、覚えていないと思うけど、忘れていてくれるといいなと思うんだけれど、こっそりお礼いいます。
ありがとうございました。