言葉と宇宙(「池田晶子 不滅の哲学」から)

メモしたままUPするのを忘れていた。『池田晶子 不滅の哲学』(若松英輔)から。詩論として読んだ。



第5章 言葉と宇宙

無私の精神に領されるとき、人は風景に溶けこむ。その人は「人」でありながら、大いなるものが通り過ぎる「場所」になる。

詩人リルケは、現世の悲しみと絶望に意味と光を掘り当てる、力強き魂の穿鑿者である。
リルケとは、詩人の名であるとともに、この世に開かれた、「宇宙」へとつながる「生ける場所」だったのである。

人が固有名をもつのは、「場所」が地名をもつ意味においてである。

生者はいつも死者とつながっている。

「場所」は「現象」と言い換えてもよい。人間もまた「現象」なのである。賢治にとって「物」はいつも不可視な何ものかの顕れ、根源者の「現象」だった。

詩のコトバは、私たちが「宇宙」とつながっていることを思い出させる。

「詩」という生きものが、詩人を通じて世界を象る

詩によって書かされると言った方が、詩人の現場に接近している。

無私なる人間の行為に心を強く動かされる、あるいは心が洗われるというとき、私たちが感じているのはポエジーである。ポエジーは人間の行為に潜むこともある。ポエジーは、相反するものを融合する。ポエジーは、「宿命的な絶望」を癒す。

対話と和解を、ポエジーは促す。

詩人とは、詩の作者であるより、詩の音を最初に聞く者の呼び名なのである。

詩作は、ポエジーのおとずれに対する人間の応答である。

詩人は自分が何に従事しているのかを知らない。ただ、懸命に一個の無私な存在であろうとする。人が「詩人」に新生する、それは一つの「出来事」である。 

しかし、悲しみこそが力なのではないだろうか。むしろ、悲しむことで、危機というべき困難のなかに、生の意味を見出しているのではないだろうか。悲しみが生を穿ち、そこに生命の泉がわき出す。

詩とは、永遠なる相の輪郭線を描く営みである。

彼(ウィリアム・ブレイク)は、人間にむかって描いているのではない。天使が見てくれればそれでよい、と答えたという。

☆☆☆

こういう文脈上に置くと、たとえばゲーテの次のような言葉も納得されるのであった。

「詩なんてものは、傑作であるか、さもなくば、全然存在してはならない。最上のものを作る素質のないものは、芸術を断念し、その誘惑に対してまじめに警戒するようにすべきである。」ヴィルヘルム・マイスターの修業時代

ああ!