メモ

わたし、というのはひとつの場所の名前ですけれども、わたしがわたしであるということは、わたしがあなたの場所にいない、ということなのですけれども、わたしがわたしという場所にいることについて、わたしはでも説明できないと思う。あなたにわかるように説明することはできないと思うし、あなたは理解できないと思う。そして、わたしもまたあなたを理解できないと思う。でも、わからなさを保留したままで、存在を認め合うことはできないのだろうか。だって、互いに生活者としてそこにいるんだから。共感は、そこから時間をかけて馴染んでいくなかで、生まれてくるかもしれないものであり、生まれてくればしあわせだ。ただ、それをさえぎる無駄な不信が多すぎる。その不信の海のなかで、より多く、存在の正当性についての説明を求められ、求められつつ、理解されず、より多く傷つかなければならないのは少数者の宿命としてあると思う。それでも、わたし、という場所をあかるくする、ということよりほかに、この世でできることがあろうとも思えない。それは、わたしのしごとであり、あなたのしごとであり、共有、共同できるしごとであるはずなんだけれども、無駄な対立も多すぎる。
無駄な不信と無駄な対立の狭間で傷つくことの、どうかすくなくすみますように。