バベルの塔

朝、ふと読んで、笑ってしまった。

社会学者・加藤秀俊 放射能、何が危険で何が安全?
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110704/dst11070403100001-n1.htm
「もうこれで4カ月近くになるから、1学期がおわった、ということになるのだろう。この学期中、われわれは原子力放射能についての大学院レベルの集中講義を受けた。いうまでもなく、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ことごとくが総力をあげて、われら国民の啓蒙(けいもう)に全力を傾注してくださったからである。
(略)
 だが「ベント」やら「トレンチ」やら、カタカナだらけの専門用語を口にしながら、はたして、われわれがそのすべてをちゃんと理解してものをいっているのか、といえば、答えは否である。じつのところ、なにもわかってはいないのである。わかっていないどころか、ますますわからなくなっているのである。
(略)」



たぶんもう、政治不信程度のことではない。
言葉そのものへの不信だと思う。
「安心」と言われれば「安心ではないのだ」と思うようになり、
「大丈夫」と言われれば「何か隠ぺいしている」と思うようになった。
疎開させないのは残酷だ」と言う。「疎開させないのは残酷だと追いつめるのは残酷だ」とも言える。
「正しく恐がる」とは何か。もっと恐がることか、もっと恐がらないことか。恐がり方は足りているのか、全然足りていないのか。
一方で「電気が足りない」と言う。もう一方で「そんなの嘘だ」と言う。
そうして嘘かほんとかわからない。

言葉を、信じてもらえない。それはそれで、ひとつの敗北でしょう。政治家も科学者も、報道も、どんな権威も。

ネットのなかは、王様の耳はロバの耳状態だけど、それがほんとに、ロバの耳なのかもわかんない。ウサギの耳かもしれない。耳のないウサギかもしれない。

バベルの塔みたいだもん。右の廊下と左の階段がつながらない、みたいな。同じ家族のなかでも、同じ学校、同じ土地にいても、言葉の通じなさのなかで発狂しそうになってないか。

友だちが、「良識的な科学者の意見が読めるページ」を紹介してくれた。
http://m1se.blog.fc2.com/

ああ、このブログあたりの認識で、事態を把握する言葉への信頼回復がなされれば、いいなと思った。

でも、それが本当に良識なのか、本当に正しい認識かどうかも、わからないのだ、というほどに、いまのバベルの塔はやっかいだろう。

何かを信じる。信じる一方から不信がこみあげる。このあたりで安心したいと思う、その安心が、また罠ではないかと思える。

風評被害」という。「風評被害という実害」という。さらに「風評被害という実害、という風評被害」と出てくる。ちょっと笑ってしまったんだけど。

しばらくは、どうしようもなく不信の海の上を、ゆられているんではないだろうか。あきらめてか、ひらきなおってか、絶望してか、希望をもってか、わかんないけど。それはもう、どうしようもないことの気がする。

そうして、何が正しいかわからないが、でも自分で決めなければいけない人生ではある。不信の海の上で、バベルの塔のなかで。覚悟して。

きっと、このバベルの塔が、原発というものの、実相のひとつではあるんだろう。
残酷だな。
それでもこのバベルの塔の、わけわからない言葉のなかでも、信じられる人の心は、ところどころにありそうではある。だれかそこをつないでゆけるだろうか。時として、まるで正反対の言葉のあいだを。
どうなんだろう。

なんにしても、この不信のゆえんは、私たちの社会が倫理的ではなかった、ということの自然な帰結なのであろうとは思います。



弟、誰が働いていたのか名前もわからない、原発の下請け作業員のひとりだったかもしれない。あの子を大事にしない社会が、まっとうな社会であるはずはないし、そして、もちろん私が、まっとうな姉であるはずもないのだった。