朝、ふと読んで、笑ってしまった。
社会学者・加藤秀俊 放射能、何が危険で何が安全?
http:// sankei. jp.msn. com/aff airs/ne ws/1107 04/dst1 1070403 100001- n1.htm
「もうこれで4カ月近くになるから、1学期がおわった、ということになるのだろう。この学期中、われわれは原子力、放射能についての大学院レベルの集中講義を受けた。いうまでもなく、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ことごとくが総力をあげて、われら国民の啓蒙(けいもう)に全力を傾注してくださったからである。
(略)
だが「ベント」やら「トレンチ」やら、カタカナだらけの専門用語を口にしながら、はたして、われわれがそのすべてをちゃんと理解してものをいっているのか、といえば、答えは否である。じつのところ、なにもわかってはいないのである。わかっていないどころか、ますますわからなくなっているのである。
(略)」
☆
たぶんもう、政治不信程度のことではない。
言葉そのものへの不信だと思う。
「安心」と言われれば「安心ではないのだ」と思うようになり、
「大丈夫」と言われれば「何か隠ぺいしている」と思うようになった。
「疎開させないのは残酷だ」と言う。「疎開させないのは残酷だと追いつめるのは残酷だ」とも言える。
「正しく恐がる」とは何か。もっと恐がることか、もっと恐がらないことか。恐がり方は足りているのか、全然足りていないのか。
一方で「電気が足りない」と言う。もう一方で「そんなの嘘だ」と言う。
そうして嘘かほんとかわからない。
言葉を、信じてもらえない。それはそれで、ひとつの敗北でしょう。政治家も科学者も、報道も、どんな権威も。
ネットのなかは、王様の耳はロバの耳状態だけど、それがほんとに、ロバの耳なのかもわかんない。ウサギの耳かもしれない。耳のないウサギかもしれない。
バベルの塔みたいだもん。右の廊下と左の階段がつながらない、みたいな。同じ家族のなかでも、同じ学校、同じ土地にいても、言葉の通じなさのなかで発狂しそうになってないか。
友だちが、「良識的な科学者の意見が読めるページ」を紹介してくれた。
http:// m1se.bl og.fc2. com/
ああ、このブログあたりの認識で、事態を把握する言葉への信頼回復がなされれば、いいなと思った。
でも、それが本当に良識なのか、本当に正しい認識かどうかも、わからないのだ、というほどに、いまのバベルの塔はやっかいだろう。
何かを信じる。信じる一方から不信がこみあげる。このあたりで安心したいと思う、その安心が、また罠ではないかと思える。
「風評被害」という。「風評被害という実害」という。さらに「風評被害という実害、という風評被害」と出てくる。ちょっと笑ってしまったんだけど。
しばらくは、どうしようもなく不信の海の上を、ゆられているんではないだろうか。あきらめてか、ひらきなおってか、絶望してか、希望をもってか、わかんないけど。それはもう、どうしようもないことの気がする。
そうして、何が正しいかわからないが、でも自分で決めなければいけない人生ではある。不信の海の上で、バベルの塔のなかで。覚悟して。
きっと、このバベルの塔が、原発というものの、実相のひとつではあるんだろう。
残酷だな。
社会学者・加藤秀俊 放射能、何が危険で何が安全?
http://
「もうこれで4カ月近くになるから、1学期がおわった、ということになるのだろう。この学期中、われわれは原子力、放射能についての大学院レベルの集中講義を受けた。いうまでもなく、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ことごとくが総力をあげて、われら国民の啓蒙(けいもう)に全力を傾注してくださったからである。
(略)
だが「ベント」やら「トレンチ」やら、カタカナだらけの専門用語を口にしながら、はたして、われわれがそのすべてをちゃんと理解してものをいっているのか、といえば、答えは否である。じつのところ、なにもわかってはいないのである。わかっていないどころか、ますますわからなくなっているのである。
(略)」
☆
たぶんもう、政治不信程度のことではない。
言葉そのものへの不信だと思う。
「安心」と言われれば「安心ではないのだ」と思うようになり、
「大丈夫」と言われれば「何か隠ぺいしている」と思うようになった。
「疎開させないのは残酷だ」と言う。「疎開させないのは残酷だと追いつめるのは残酷だ」とも言える。
「正しく恐がる」とは何か。もっと恐がることか、もっと恐がらないことか。恐がり方は足りているのか、全然足りていないのか。
一方で「電気が足りない」と言う。もう一方で「そんなの嘘だ」と言う。
そうして嘘かほんとかわからない。
言葉を、信じてもらえない。それはそれで、ひとつの敗北でしょう。政治家も科学者も、報道も、どんな権威も。
ネットのなかは、王様の耳はロバの耳状態だけど、それがほんとに、ロバの耳なのかもわかんない。ウサギの耳かもしれない。耳のないウサギかもしれない。
バベルの塔みたいだもん。右の廊下と左の階段がつながらない、みたいな。同じ家族のなかでも、同じ学校、同じ土地にいても、言葉の通じなさのなかで発狂しそうになってないか。
友だちが、「良識的な科学者の意見が読めるページ」を紹介してくれた。
http://
ああ、このブログあたりの認識で、事態を把握する言葉への信頼回復がなされれば、いいなと思った。
でも、それが本当に良識なのか、本当に正しい認識かどうかも、わからないのだ、というほどに、いまのバベルの塔はやっかいだろう。
何かを信じる。信じる一方から不信がこみあげる。このあたりで安心したいと思う、その安心が、また罠ではないかと思える。
「風評被害」という。「風評被害という実害」という。さらに「風評被害という実害、という風評被害」と出てくる。ちょっと笑ってしまったんだけど。
しばらくは、どうしようもなく不信の海の上を、ゆられているんではないだろうか。あきらめてか、ひらきなおってか、絶望してか、希望をもってか、わかんないけど。それはもう、どうしようもないことの気がする。
そうして、何が正しいかわからないが、でも自分で決めなければいけない人生ではある。不信の海の上で、バベルの塔のなかで。覚悟して。
きっと、このバベルの塔が、原発というものの、実相のひとつではあるんだろう。
残酷だな。