泣いた短歌 笑った詩

短歌を読んで、泣いたことは、4回くらいはある気がする。
石川啄木と、中城ふみ子と、山中智恵子と、それから蝦名泰洋のこの一連。
http://hitsujikai.blog.eonet.jp/default/2010/04/post-5c3d.html
95年くらいに、同人誌に載せていた。

で、いま読み返して、なぜ泣いたかわからない。15年前に自分がいた場所が思い出せないんだけど、泣いたことだけ覚えてる。

90年代のドイツのネオナチの少年が出てきたりするが。
そういえば、こないだ上京して、訊ねた国会の議員会館で、某議員が言っていた。こういう不況になって、以前ドイツで起こったネオナチの外国人排斥のような動きが底流にあるかもしれない。
国会周辺、在特会がいたもんね。

1日5千円くれたら、お金くれなくても弁当があれば、弁当がなくても誰かに誘われたら、私のやさしい弟も、そこに立っていたりするかもしれん。つまらぬことをわめいていたりするかもしれん。
もしかしたら、魂なんて、それくらいの値段だ。

そういえば、詩を読んで笑った記憶は、あんまりない気がする。
何か、子どもの詩をまとめたものを読んで、笑ったことはあったかもしれないけど。
で、詩を読んで笑った。
読んで笑って、思い返して笑って、読み返してまた笑った。
おかげでほのぼのした一日だった。
http://hitsujikai.blog.eonet.jp/default/2010/05/post-a5ca.html

こないだピョン先生から聞いた話を、思い出した。

小熊秀雄という若くて死んだ詩人の詩が、朝鮮語訳されて韓国で出版されたとき、遺族の住所がわからないので、朝鮮大学に本が送られてきた。それで調べて訊ねていったら、未亡人は貧しい暮らしぶりだった。本を渡すと大事そうに撫でていた。サインを求めたら、
「私のようなものが書いたら、本が汚れます」
小熊秀雄の未亡人は、そう言ったらしい。

私のようなものが書いたら、言葉が汚れます。

そういうことを忘れるから、もの書く人間は堕落しやすいのかもな。私もな。