歴史学研究会による抗議声明

貼っておきます。ぺったん。

歴史学研究会による抗議声明

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-a748.html

調べごとをするのに、二十歳の頃に、韓国人女性被爆者の被爆体験の聞き書きをしたときの体験集を、引っ張り出してきて、読み返していたら、いろいろ発見がある。聞いたのに忘れていたあれこれのこと。

戦後、日本が負けたから、朝鮮人は殺される、という噂が飛び交って、早く祖国へ帰ろうと、漁船にのりあわせてあちこちの河口から帰っていったことは、河口近くに住んでいた人から聞いた。自分たちは原爆で焼かれて何にもなくて帰れなかった、と言った。子どもが小さくて、船の底に押し込めておく旅なんてできなくて、船に乗るのをあきらめた人もいた。
半島から引き上げてきた日本兵が、鉈をもって朝鮮人を殺す、と暴れた、道で朝鮮人が殺された、こわいから被差別部落に逃げ込んだのだ、というのは最近聞いた話。
ひとつの家族でも、帰った人、帰らなかった人、のちに共和国に帰った人、兄弟姉妹が別々の国で生きることになった運命に(そして多くの人々が生涯ふたたび会えなかった運命に)この国は深く責任があるだろう。

その責任の深さに対して、私たちが、そういったことを何も知らずにいるということ、在日朝鮮人がなぜ存在するのかさえ知らないという、その無知は、おそらくもう犯罪的で、その犯罪的な土壌の上に、今度の無償化除外の問題も起こっているのには違いない。

1949年の民族学校閉鎖令で、広島では、37か所ほどあった国語講習所(民族学校の前身)が、閉鎖された。警察も教育委員会もやってきて、学校に板を打ち付けた。その板をはいで、数ヶ月数年で、4校の学校が再開した。なかの1校だけは、一日も休まず、学校を続けた。昼は使えないので夜学にしてつづけた。

そういうひとつひとつの具体的な歴史を、共有していくことが、大切ではないだろうか。

「あんたらに話したくない、話してもどうせわからん」と言って、一度か二度は追い返されたあと、また訊ねていったある日、突然、被爆体験を話し出してくれたのだったけれど、何人ものお母さんが、被爆のつらさも差別のくやしさも語れないほどだ、と言った。その語れないことを語って、なお語りきれない。無学で字がかけないが、もし字が書けて書いたら、それはこの家いっぱいになる。それは誰が読んでも泣くでしょう。
それから言った。
「正しい歴史を残してちょうだい」

この無学なお母さんたちは、自分たちの苦しみが、個人的な体験にとどまらず、その苦しみのなかに、正しい歴史があることを、直感していたのだ、と思う。
「正しい歴史を残してちょうだい。そうしたら死んでも悔いが残らん」
そう言ったのだ。