緊急集会のこと

昨日の緊急集会、バスの時間があって途中までいられなかったのですけど、報告が河津さんのブログに載っています。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/03/post-abfd.html
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/03/post-5bf8.html

授業料無償化の対象から朝鮮高級学校を除外するというのは、民族差別です。単純に言ってそうです。除外を正当化しようとするどんな理由も、その理由を言うひとたちの、歴史観の誤り、それ以前のおそるべき無知、歴史的想像力の欠如、あるいは事実を知ろうとしない怠慢を露呈しているにすぎません。それはすなわち暴力です。

政治も詩人も、言葉をつかって仕事します。この国の詩人が、政治の言葉の暴力に、反対の声をあげたということが、本当にうれしい。全面的に全面的に賛同し、支持します。

今年は、日韓併合から100年。いうまでもなく、在日朝鮮人の存在は、日本の植民地支配の結果です。そして、どれほど差別し、蔑み、苛めてきたか、どれほどの辛酸を嘗めさせてきたか。その残酷さは、関東大震災のときの朝鮮人虐殺という史実ひとつを想起するだけでも、ふるえがくるほどです。

昨日の、在日の詩人の金里博さんのお話は、戦後の在日朝鮮人の歩みを、朝鮮学校のことも、自らの体験も率直に語ってくださって、とても心うたれました。お話を聞きながら、学生のころに、在日韓国人被爆者のお母さんたちから聞いたお話や、卒論を書くために読みふけった在日朝鮮人文学のあれこれの場面や、また身近な関わりのなかでのことや、いろんなことが思い出されて、頭がわんわんうなりそうでした。
彼らの生活史に綴られてきた苦しみ、けれどもそれは同時に、人生の深さにも通じてゆくもので、私はその一端を知ることができたことをうれしく、またそのことによって、私自身の人生が支えられていることを感じるのだけれども、本当にいろんなことが思い出されて、言葉になりません。

この国は日本人だけのものではない。開国、侵略によって、それをそうしてきたのが、日本の近代です。先住民族に対しても、他民族に対しても、この国の近代は、本当に残酷だけれども、もしも日本が、彼らをどれほど差別し、苛めてきたかを知らないとしたら、気づかないとしたら、それは日本人として心底恥ずかしいことです。

税金を払い、義務を果たしているにもかかわらず、選挙権がないということだって異常だけれども、すでに予算まで組んでいたものを、わざわざ排除するというのは、いったいどんな悪意なんでしょう。

異なる民族として、ともに在日する、という場所から、発想しなければならないと思います。ひとりの子ども、ひとつの家庭、その現場から、私たちが日本に生きる日本人としての幸福なあり方を探っていかねばならないように、彼らは日本に生きる朝鮮人としての幸福なあり方を模索していかなければならない。民族と言語は、人間のアイデンティティの根幹をなすものです。そして個の尊厳は、国家や組織の論理に優先しなければならないはずです。ほんとうは、国家も組織も、個の尊厳のためにこそ働かなければならない。

他者を他者として、その尊厳を認めつつ、ともに生きてゆくこと。それを難しくさせている、同化と排外というこの国の差別の構造は、日本人にとっても残酷なものであるはずです。
この国で生きる子どもたちの未来のために、過ちを繰り返さないために、ともに模索していきたいと思います。心をひらいて話し合い、わかちあい、協力していかなければならないことがたくさんあると思います。それは日本人にとっても在日朝鮮人、外国人にとっても、ゆたかなものになるはずです。排除、という発想は、その真逆をゆくものです。
緊急アピール文が、最終的にどのようなものになるかわかりませんが、私が受け取った(案)の最後は次のようにしめくくられています。

「政策決定にあずかる方々に強く要望します。
 授業料無償化の対象から朝鮮高級学校を除外するという間違った選択を取らないでください。それはこの学校で学ぶ若者たちの希望を、ひいては未来を引き裂くかも知れない残酷な仕打ちです。彼らは日本社会の一員であり、この国の文化の重要な担い手であることを忘れないでください」

まったくそのとおりだと思います。