中也記念館

午前中、子どもはおじいちゃんを連れて玩具屋へ行き、つきあいたくない私は、中原中也記念館の前で降ろしてもらう。
中也記念館は、入館料が安くて、しずかで、いい。
帰省したときの、ささやかな逃避場所。
半年ぐらいで展示内容が変わるかな。いまは、河上徹太郎中原中也展。河上徹太郎が岩国の人とは知らんかった。

晩年の河上徹太郎の言葉。
「今まで書評とか文芸時評とかさんざんやってきてをかしいといはれるかもしれないけど、ぼくは日本文学で本当に好きなものはないんです。(略)ぼくにとっての日本文学は、中原中也小林秀雄だけでいいんです。」
「今ぢやぼくの頭の中には彼の記憶より彼の詩のほうが残ってゐるやうになりました。結局、中也は何を遺したかといへば、あたりまへのことですが、詩ですね。それだけでいいんぢやないですか。」

ゴミの山で、ゴールドを探しているといった青年のことを思い出したりした。ゴミに火を放って探す。ゴールドは焼けないから。金の指輪なんて、ゴミのなかから見つかるもんでもないだろうが、あると確信して探している。
たいていのスカベンジャーは、ビンや缶やプラスチックを拾う。確実に拾えて、お金になるから。ゴミの山にも組合がある。力関係もある。強い組合にいるほど、新しいゴミに群がることができる。組合に入れない人は、みんなの拾いのこしのゴミしか拾えなくて貧しい。
ゴールドを探す青年は、組合にはいっていない人よりさらに遠くに離れている。ゴミの山の辺境にいて、火を放つ。
流通するのは、ビンや缶やプラスチック。ゴミ山の外の世界では、ゴミでしかないが、ゴミに群がる数千人にとっては、そのために流血の惨事も起こるほど切実な生活の糧だ。
その糧を、ゴールドを探す青年は燃やす。だから、ゴールドを探すものはアウトサイダーになる。アウトサイダーにしかなれない。
ほんとうはみんな、ゴールドを見つけたい。ゴミの山の外でも、100年のちにも価値をもつゴールド。でもそのために、そのほかのゴミを燃やす勇気があるかっていうとなかったりするから、ビンや缶やプラスチックを、ゴールドだと言い張ってみたりする。
しないか。もちろんスカベンジャーはそんなことしない。
でもいつか、歳月は、自然発火の炎をあげて、みんな燃やしてしまうだろう。ゴールドだけが残るだろう。あるいは何にも残らないだろう。

記念館を出て、迎えに来てもらうのに電話を探して、人通りのない午後の湯田温泉の通りをうろうろしていたら、公園に出た。公園に中也の詩碑があった。
「これが私の古里だ さやかに風も吹いてゐる ああおまへは何をして来たのだと 吹き来る風が私にいふ」

結局、近くの大きなホテルから電話する。最近、どこに行っても公衆電話を見つけるのに苦労する。

夜、広島に帰ってきた。子どもは買ってもらった玩具抱えて。