死の側より


  死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも (斎藤 史)

 そうなのかもしれない。でも、「死の側より照明せば」という、死の側からのまなざしを、どうすれば感得できるのだろうと、はじめてこの歌を読んだころからずっと不思議だった。

 何げないときにふと、なつかしい人たちのまなざしを思い出すことがあるが、そういう人たちの何人もが、すでにいない。すると、いまも見まもられていると感じる、あのまなざしは、死の側からのものだろうか。いや、思い出の側からのものであるにしても。

 死の側へ行った人たちのこと、いつか自分も行くことを思うと、ふいに軽やかな気持ちになったりする。いまとても重たいと感じているたいていの悩みが、たちまち重力をなくしてしまうからだ。
 そしてかわりに、重たい宿題があらわれる。

   「どれだけの奉仕をしてきたか」「無条件の愛をどれだけ学んできたか」

   キューブラー・ロスは、臨死体験者たちの取材から、人は死に臨んで光のなかに入ったときに、このことを問われると書いている。(『死ぬ瞬間』『人生は廻る輪のように』『ライフ・レッスン』など)
 きっとそうだろう、と思う。

 勤労感謝の日。私の母の命日。