アルミニウムを流したような


 昨日の午後、雪かきする。途中で飽きて、雪だるま3つつくった。
 夜、体じゅう痛かった。雪国の過疎の土地では、さぞかし大変だろうと思った。
 今朝起きたらまた積もっている。雪だるまも雪に埋められている。

 ショーロホフの『静かなドン』を読んだのは中学生のとき。ロシア革命の頃のドン・コサックの話だ。歴史の理解が追いつかないのと、ロシア人の名前が難しいのとで、読むのに難儀したのを覚えている。
 冬になるといつも思い出すのだが、文中に「アルミニウムを流したような空」という表現があった。聞いたことのない表現で新鮮だった。日本語なら、墨を流したような、というふうになるんだろうか。アルミニウム、とはいかにもソ連らしい、と14歳の私は思った。社会科の授業では、ソ連社会主義の計画経済とか、重工業の発展、なんてことを習っていた時代だった。

 薄い灰色の雪空は、昼間はそれでも白く発光していて、いかにも「アルミニウムを流したような」空だった。

   栄あるわれらの土は犂(すき)ではおこされず
  われらの土は馬のひづめでおこされた
  栄ある土にはコサックの首(こうべ)が播かれ
  われらの静かなドンは若い後家衆で飾られ
  われらが父なる静かなドンは孤児で色どられ
  静かなドンの波は父母の涙でみたされた
             (コサック古謡 )