マリーゴールド


 マリーゴールドを見ると、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』という小説を思い出す。物語の最初のほうに、次のような文章がある。

 「秘密にしていたけど、1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。」

 その年に物語の中で起きた出来事は、「青い眼がほしい」と言っていた黒人少女のピコーラが、父親の子をみごもり、精神を病んで、町で台所屑を漁るようになった、ということ。ピコーラの友だちだった黒人の姉妹は、畑に植えたマリーゴールドが咲かないことはピコーラの不幸と関係があると思った。そして、種を播いた自分たちのせいだと。深いところに播いたから、と。
 「二人とも、土地自体が不毛だったかもしれないとは夢にも思わなかった。」

 ピコーラの家庭の崩壊と人格の崩壊のようすが、友だちの黒人少女の目を通して描かれていくのだが、黒人の少女が、白人の少女の青い眼にあこがれ、青い眼がほしいと願う、そのあこがれのおぞましさに、まず胸をつかれる。
 最初にこの物語のことを知ったのは、津島佑子のエッセイだった。引用されていた文章を読んで、読みたいと思い、でもそのときは手に入らなかったから、モリスンがノーベル文学賞を受賞したあとだったと思うけれど、10年ほど前に早川書房から出たときは、とても嬉しかった。引用されていたのは、次のくだり。

 「わたしたちが彼女の上に投げ捨てて、彼女が吸収してしまったすべてのごみ。それから、最初は彼女のものだったのに、彼女がわたしたちにくれてしまったすべての美しさ。わたしたちはみんな──彼女を知っていたすべての人々は──彼女の上でからだを洗ったあと、とても健康になったような気がしたものだ。わたしたちは、彼女の醜さの上にまたがったとき、ひどく美しくなった。彼女の素朴さがわたしたちを飾り、彼女の罪がわたしたちを神聖にし、彼女の苦痛がわたしたちを健康で輝かせ、彼女の不器用さのおかげで、わたしたちは自分にユーモア感覚があると思ったものだ。彼女は口下手だったので、わたしたちは雄弁だと思いこんだ。彼女の貧しさのおかげで、わたしたちは気前がよくなった。彼女の白昼夢さえ、わたしたちは利用した──わたしたち自身の悪夢を鎮めるために。彼女はこういうことをわたしたちに許してくれたので、わたしたちの軽蔑を受けるにふさわしいものとなった。」
      『青い眼がほしい』トニ・モリスン  大社淑子訳 早川書房

 そんなわけで、マリーゴールドという花が気にかかる。パンジーが終わったので、空いたところに植える花を探しに行って、買ってきたマリーゴールド。植えて、秋まで元気いっぱいに咲いてくれるときもあるけれど、なめくじに食われて、枯れてしまう年もある。今年はどっちだろう。ずっと晴れていたのに、今日から雨のようで、心配。

 撫子の鉢に、むかでの巣ができていたみたいで、卵から孵ったばかり、の感じのちっちゃいのがわらわらでてきた。一匹ずつ潰したけれど、きっと生き残ったのが、この雨の間に植木鉢の裏あたりで、なめくじといっしょに、まるまる太っていくのだと思うと、やや憂鬱。