ワンワン

 一昨日だ、夕方、運動公園で遊んでいたら、隣の団地の顔見知りの人が、バイクに犬を乗せて連れてきた。「ワンワン」と子どもは喜ぶが、その程度のことではすまなかった。
 小さな柴犬の大好きな遊びは、投げられたボールを拾いに行くことで、それが山の急な斜面の上の茂みのなかに放られたのを、ものすごい勢いで走ってくわえてくるのである。猟犬というのはこんなふうだろうかと思ったが、その凄まじい勢いに、子どもが狂喜して飛び跳ねる。「ワンワンワンワン」と犬より高い声で鳴く。犬を追いかけても急な斜面はのぼれなくて、その場でぴょんぴょん跳んでいるが、場所が変わって、なだらかな傾斜の斜面の下のほうにボールが投げられると、追いかけていけると思ったらしく、斜面をあやうく頭から転がりおちるところだった。きみはまだ体より頭が重い。追いかける私が息がきれる。
 「生の躍動(エラン・ヴィタール)」はベルクソンの言葉だったか、昔読んだことがあるようなないような。犬になって跳ねている子どもを見て、その言葉を思い出した。津和野で鯉にえさをやったときも凄かったけれど、きっと生き物たちの「躍動」に、本能的に感応しているんだろう。その様子はまったく、狂喜、という言葉のほかにない。命あるものは凄いな、と思った。こんなに子どもを喜ばせることができる。おもちゃでは得られない喜び、もしかしたら、人間の大人たちも与えることができなくなっている喜び。失っているエラン・ヴィタール。
 紅葉のカエデの上に、夕闇がひろがっていく。夕闇が深くなるにつれ、白く丸い月が次第に黄色く輝きはじめるのを見ながら、帰った。