傷は大いなる無知の証でもあるのです。
           ナーズィク・アルニマラーイカ(イラク)
 
 と、古いノートに書き付けている。なんで見た言葉か思い出せないけれど、そのあとに、レンドラ(インドネシアの詩人)の詩が書いてあって、詩の日付が1991年とあるから、きっと同じ頃、たぶん、湾岸戦争の頃だ。冷戦が終わって、21世紀に向けて、これからきっといい世界になると、思ったのが、民族紛争やあれこれの内戦や戦争に、もしかしたら、そんなに簡単なことではないのかもしれないと、考えさせられるようになった頃。あの頃は、21世紀になる頃には、世界はユートピアになっているだろうという、子どもの頃の夢を、まだすこしは、ひきずっていた。
 それから10年たって、ユートピアがくるはずだった21世紀のはじめに、ツインタワーが崩れ落ちる映像をリアルタイムで見たとき、ユートピアの幻想も砕かれた。私たちの文明は、こんなにもろく、私たちの豊かさは、こんなに貧しいと、思い知らされるような、あの日の映像と、それにつづく戦争と。
 見なければならないのは、ユートピアの幻想ではなく、現実の傷のほうだ。
 
 昨日は1日、雨。今日もきっと雨だろう。家のなかで遊ぶしかない子どもは、狭いところでふざけて、かわいそうに机に顔をぶつけて、頬のすり傷が痛そうだ。
 こっちへおいで、というのに、不敵な笑みを見せてあっちへ逃げていくとき、それは、追いかけてつかまえて抱きしめて遊んでほしいから、そうしていたりするのだとわかるけれど、大きな喜びは、大きな危険と背中あわせで、いつでも賭けに勝てるわけではないことは、きみもすこしずつ、知っていかなければならないと、思うよ。