重力と恩寵

「地球上の全部のエネルギーが込みあがってくるような、わーっという感覚がした」
という、歌織被告の言葉。
を、ものすごく生々しく感じた。
よっぽどいじめられたし追い詰められたんだなと思う。

犯罪を擁護する気はないが、鈴香被告のときにも感じたのだ。
不思議な従順さ。素直さ。無意識の。
でも、それはたぶん理解されない。憎まれることはあっても、理解はされない。そんなに従順で、素直でなければ、最初の犯罪を白状するためのように、隣家の子どもを殺さなくてすんだと思うし、夫を殺す前にどこかへ逃げることもできたかもしれない。
そのほかのありようを選べない、逃げ方を知らない、愚かさといえば愚かさのような、でもなにかしらの従順さ。

二度目にフィリピンを訪れたのは乾季のころで、ゴミ山の自然発火の炎がすごかった。あちこちで炎のあがるゴミの山を歩きながら、こんな風景は人の心のなかにあると思っていた。
他者のエゴイズムを(ゴミのような)受け入れつづけたら、いつか爆発もするだろう。そうして暴力は伝染するのだろう。捨てられたひとつひとつのゴミは小さくて(そのときどきのエゴイズムはほとんど気づかないほどで)、それが、人を焼き殺したりもする爆発を招いたりするとは、夢にも思わないだろうけれど。
ゴミを捨てているのは私。ゴミを捨てられているのも私。
自分の心のなかを歩いているような気がした。

妻であったり、母であったりすることの化学式のなかに、カオリ、という記号、スズカ、という記号は、ごく普遍的にある気がする。それを顕在させるかさせないかの違いは、もちろん決定的に大事なことなのだけれど。ふたりを夜叉のように言い捨ててすむ問題でもないと思うのだ。

「暴力は伝染する。それを自分のところでくいとめるのが、信仰の力である」というようなことを、S・ヴェイユが書いていた記憶があるのだが、そのような信仰を失っている世界だろう、という気がとてもする。

「すでにこのカインの末裔たちは星を失ってから久しい」(李箱「東京」)

暴力を違うものに変化させることができる恩寵のありかへ、思いを向けること。そのような恩寵は、ただ、経験とか生き方をもってしか示せないもののような気がする。そしてそのような恩寵を、自分のうちに開いている人は、たしかに存在するのだ。そのことが、すごい。