「闇の子供たち」

梁石日闇の子供たち」「異邦人の夜」読了。パンチョさんに貸してもらった本。
闇の子供たち」はフィリピンの往復の飛行機のなかで読んだ。
幼児売買春と臓器売買(生きた子どもの臓器が売買される)の、おぞましさ極まる話。
映画が上映されることは帰国して知った。
http://www.yami-kodomo.jp/

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」という小説は、臓器提供のために育てられ、臓器を提供して短い生を終えるクローンの子どもたちの物語、それはそれで戦慄もさせられる、泣きたいほど切ない物語だったが、物語、として読めた。
闇の子供たち」は、切ないなどという感情の入り込む余地がない。金のために子どもの命まで売買される。エイズにかかって使えなくなったら生きたままゴミ袋に入れて捨てられる。この暴力、この貧困、この残酷、このおぞましさ、この地獄が、現実なのである。以上。

解説で、永江朗が、次のようなことを書いていた。

「かつて私たちは、自分が豊かになることについて、なにがしかの罪悪感を持っていた。」自分だけが、豊かになっている、他人を踏み台にして豊かになっている、という後ろめたさ。戦後の復興も経済成長も、朝鮮戦争ベトナム戦争など、アジアの人々の流血の上にあったし、自分たちの豊かさが、他の人々の不幸の上に成り立っている、インチキなものである、と感じていた。1980年代はじめ頃までは。
だが、80年代半ばになり、バブル経済のなかで、豊かさに対する後ろめたさが消えていった。傲慢な時代だった。アジア各国や南米から大勢の人々が日本に働きに来るようになったが、「彼らを見る日本人の視線には侮蔑が込められていた」。彼らが貧しいのは彼ら自身のせいであり、私たちが富を独占しているから、貧しいのではないか、と疑う声は、バブルの熱狂にかき消された。
その後バブルは崩壊して、経済にも治安にも自信がもてなくなっているありさまだが、かつての、「海外の貧しい社会に対する後ろめたさは回復できないでいる」

ほんとうにそのとおりだと思うのだが、もしかしたら、豊かさに対する後ろめたさ、というまっとうな感覚を失ったかわりに、国内に、ワーキングプアが出現する事態になったのかもしれない。私たちは、貧しさそのものを、呼び戻すことになるかもしれない。

2000年頃、パヤタスに滞在していたときに、ニュースで見た。海のほうのスラムだったが、人々が腎臓を売っているというニュース特集。腎臓を売って得るお金は、日本円で30万円くらいだった。それなりにまとまった金額ではあるが、腎臓を売ってから体調が悪くなり、せっかくの金が薬代で消えてしまう、というようなこともある、という内容だった。
去年ぐらいだったか、腎臓売買の似たような映像が日本のテレビでも流れ、政府の担当者は、腎臓売買を政府が管理して、腎臓の値段をあげて、提供者が70万円は受け取れるようにする、とか、外国人への移植手術の費用を高くする、いうようなことを言っていたが、そのあと、今年になってからのニュースでは、外国人への臓器売買を禁止する、と言っていた。
もしも闇のルートが存在すれば、腎臓の値段はとほうもなく高くなるだろう。だが、その金銭は提供者が得るわけではない。


ゴミの山をはじめて訪れて、それから、あれこれの問題を見聞するようになって、1990年代半ばころだ──、ここで見る光景は、ほんとうは地上のどこにでも、日本にもある光景だろう。そう思っていた。貧困も、家庭崩壊も、子どもへの虐待も、性暴力も。
そして、たぶんそのころから、そして今世紀にはいっていっそう、それらは日本の子どもの現実として語られているように思う。
きっと、豊かさへの後ろめたさなど、とうに失っている私たちは、ゴミの山のスラムの日常と、実は同じ日常を生きはじめているかもしれない。豊かさの見せかけをはぎとられたあとに、何が残っているか、だけが、本当だと思う。

金があっても金がなくても、人間は狂いやすい生きものだし、まっとうな人間でいるということは、思っている以上に、もうとても、難しいことかもしれない。