連帯

連帯、という言葉は、きっと、一番信じてこなかった言葉だ。
たとえば学生運動なんかは、子どものころにテレビでやっていた遠い過去の話だった。実際に自分が大学生になったころは、ポーランドワレサ議長率いる「連帯」の物語が、映画になったりしていたが、それもまた遠い国の話だった。
「連帯」という言葉は、すでに死語のようだったし、われわれ、という物言いは、それだけで胡散臭く思えた。
たやすく「われわれは」「わたしたちは」と仲間扱いする友人を、友人とは思いながらも、白状すれば心のどこかでは警戒していたし、気づけばことごとく絶交している。
集団の力で何かができる、とか、仲間がいるから大丈夫、とか、決して思ったことはない。
たぶん、今も、連帯、という言葉を、私は信じていない。連帯しよう、などとは、これからも決して言えない、と思う。

しかし。

ひさしぶりのパアララン・パンタオで、まず驚いたのは、水道から水が出ることだった。はじめて訪れた14年前は、近隣の井戸の水を買っていた。水は安くないし、水汲みはたいへんな労働だった。雨季は雨水をためて、それで体を洗っていた。水道管を買うための資金を準備して、近くの給水塔からの水道敷設の工事をしたのが1997年。
でも水が出たのは最初の数か月くらいじゃなかったかしら。翌年には、給水制限で、一日のうちの2時間くらいしか水は出なかったし、それでもその間に水をためておけばいいのだからよかったけど、そのうち、給水塔が故障したとかで、水はまったく来なくなった。近くの井戸も使えなくなって、一時期はトラックで売りに来る水を、水道料金の5倍の値段で買っていた。それから、学校の裏庭に井戸を掘って、便利になったが、地下水は、ゴミから出る有害物質に汚染されているかもしれず、危険と思わるので、飲み水は買っていた。
水は貴重だから、滞在する間、体を洗うのも、バケツ一杯の水ですませるとか、気を使ったし、食器を洗おうとしても、おまえたちは、少ない水で上手に洗う方法を知らないから、と洗わせてもらえなかったりとか、した。

新しい学校は、水道から水が出る。途中で止まったりしない。バケツの水がからっぽになっても、あとで足しておける。なんかなんか、すごくうれしかった。

教室のなかも、以前の建物にくらべれば、格段にきれいで明るい。以前の教室は採光が悪かった。2000年ころまでは、窓にもガラスは入っていなくて、木製のブラインドだったし、雨の日に停電になると、昼間でも、ろうそくを灯して勉強するほど薄暗かった。
96年ごろ、しばらく学校に滞在したあとに、別の場所に行って、窓のガラスをみたとき、ああこんなきれいなものがあるんだ、と思った。ガラス。光をとおすもの。パヤタスの、ゴミの山の集落で、ガラスのはまった家などは見なかった。窓には板戸があればいいほうで、なければぼろ布をぶらさげていた。

給食がはじまったこと、つづいていること。学校が分校もできて2校になったこと。ゴミ山で育った親のいない子が、この学校で学んで、奨学金で大学に行って卒業して、就職できたこと。たくさんの人が、この小さな学校を、支え続けてくれているということ。

はじめて、ゴミの山にのぼったとき、ごみを拾う子どもたちを見ながら、思った。ここが、世界の中心であったら、どうなるのだろう。人間社会のすべての機能が、たとえばここでごみを拾っているひとりの子どものために、何ができるか、ということを基軸にして、動き出したら、世界はどんなふうに変わるだろう。

そのような世界を、見てみたい、と思った。

「全部はできませんよ、それぞれの立場で、できることをすればいいんです」
学校の支援をはじめたころに、ずっとマニラのスラムで活動していた谷崎さんに言われた言葉だ。その言葉を聞いてしまって、あとにひけなくなった。
力がない、とか、できない、ということがいいわけにならない。それぞれの立場でできることが、何かあるかもしれない。

「連帯」という言葉を、信じない。「連帯」という言葉を、たやすくいう人を信じない。
けれども、たくさんの人に支えられて、国も民族も信仰も思想も違う人たちが、いつのまにか自然に助け合って、この学校がつづいているという現実は、なんだかすごい。

ひとりのちいさな手なにもできないけど
みんなの手と手をあわせればなにかできる

という歌は本当に本当に本当だと思う。
学校が本当にたいへんだったとき、助けてくれたのは、お金や地位や名誉がある人たちではなかった。人権がどうとか、開発教育がどうとか、日頃言っている人たちでもなかった。

なにもできないひとりのちいさな手が、ものすごく大事なのだ。
そのことを信じられるようになって、よかった。