高校1年のときに読んで、それがどういうことなのか、わからないのに、泣くような気持ちで読んでしまって、いまだに覚えている。
新潮文庫の(定価220円だったころの)坂口安吾「白痴」の、福田恆存の解説。

「おもりがあるから飛べぬ、と私小説作家たちはいう──が、おもりを除いてしまったら、やっぱり飛べないことがわかってしまうことをかれらはおそれている。
(略)
〈おもりを除かなければ、翼は高く羽ばたかない〉というのは、おもりをできうるかぎり重くするというしごとと矛盾しない。矛盾しないどころか一致する。
 こういいなおせばいいのであろう──
 おもりを重くしなくては、翼は強くならぬ。軽いおもりのために飛べなかったような翼なら、それを除いてやったところで、どうせ高くは羽ばたくまい。」

それから数年後、同じ言葉を、ヴェイユの著作のなかに聞いたと思う。それから数年とか数十年の間に、広島とかゴミの山とかいろんなところで、背中にはえる十字架とか、背負わされた天秤を、翼に変えて飛ぶ人たちが、本当にいるのだと知ることができたことは、ほんとうに幸福だと思う。
詩は、ほんとうは、天秤が翼にかわる、その梃子のところにあるべきなのだと思う。あるものであってほしいと、思う。

鳥、鳴いてる。鶯の声ぐらいしか聞き分けられないけど、いろんな鳴き声。