理解

町内会長のところに出かけて、飲んで帰ったパパが言うには、日曜の会合のときに、ちびさんがお手伝いしたのを、おじいさんたちがまた、立派だ立派だと、ほめてくれたらしい。
思うに、ここは居心地がいい。会長の息子さんも発達障害があり、福祉作業所に通所している。前会長は、町内に新しくできた作業所の製品を売りに行くバイトをしている。その作業所には、知的障害、身障者、若い子から老人までいろんな人がくる。隣の家の少年も、この春からそこに通うらしい。
まわりの大人たちに、ちびさんのような子への理解があるので、居心地がいいのだ。すごく。

隣の団地のHさんから電話。彼女は療育で受け付けをしている。それで、発達障害児の医療費の助成金の手続きのこと、気にかけてくれたのだった。書類用意しとくから、と言ってくれる。心強いです。とても。

夜、集まりがあって、小さい子たちも来るので、ちびさんも喜んで出かけていく。町内会よりはもうちょっと広い範囲で、数年間、廃品回収などで集めて積み立てていた10万円近いお金を今回、ハイチの地震義援金としてユニセフに送りました、という話などある。すごいな。そういうことをしていたんだ。

子どもたち、お菓子をもらう。そこで事件が。
ちびさんのお菓子を、1歳になったばかりの男の子がつかんでしまった。離さない。私はぼんやりしていて、現場を見ていなかったのだが、ちびさん、その赤ちゃんの腕をねじって、力まかせにお菓子を取り返そうとしたらしく、赤ちゃん泣いた。それを見たうちのパパがとんできて、衆目のなか、ちびさんを表にひきずりだした。しばらくして戻ってきたちびさん、私の背中にやってきて、ぐすぐすぐすぐす泣いていた。
まあ、しょうがない。泣け。

「小さい子にやさしく」なんて一般的な標語は、この子どもには通じない。私もそうだったのでよくわかるのだが、小さい子って誰のことか、やさしくするってどういうことか、具体的にわからないのだ。だいたい人間の姿は見えていない。お菓子しか見ていないし。
現場を押さえて、言い聞かせるしかない。必ず具体的に。
「Rくんがお菓子をほしがったら、あげなさい。そうしたら、きみの分はまただれかがくれるから。そういうもんだから。小さい子にお菓子をわけてあげられない子は、うちにはいらんから、鹿のところに行け」
鹿のところには行かないの、ぼくこれから、Rくんにお菓子あげるの、と泣く。
で、Rくんにお菓子をあげることはできるかもしれない。でも、やはり小さいKちゃんにおもちゃを貸してあげられるかというと、それはまた別の話で、もっていった玩具、結局袋にしまいこんで隠していた。

息子が何しているかを、どうしてしっかり見ていないのかと、私もパパに叱られるんである。「おまえのせいで、ママまでパパに叱られたじゃないか。どうしてくれるんだよう」と、それくらいは私も言う。
正しい育児をしているかどうかなんて、私は知らん。

ところでこの子ども、似てくる。最近は机の下にもぐりこんだり、押し入れに隠れ家つくったり。それは私の子どものころの遊びだった。そのうち天井裏や床下にもぐるんじゃないか。なんというか、子どもだった自分が目の前に現れたみたいで、気味が悪い。力ずくでお菓子をとりあげるのだって、私が弟にそうしてきたもん。引っかいたり噛みついたりして、泣かせまくったもん。

だからまあ、ちびさんのやってることは理解できる。理解できるが、ゆるしてやろうとは思わん。最近、ぼくにも妹がほしい、などというのだが、「きみは小さい子泣かせるもん。お菓子もどうぞしてあげられないもん。Kちゃんにも玩具かしてあげられないもん。だからみんな、りくをお兄ちゃんにするのいやだから、妹も弟も来ないんだよ。わかった。反省してください。反省」
反省、というと、小さいころからの習性で、両手でぱっと顔をおおう。そのしぐさがかわいらしいが、ま、反省しても弟も妹も来ないけど。

幼稚園では、先生に「いや」を言うようになってきたらしい。自己主張できるのは慣れてきたんだろうけど、歌ったり、踊ったり、みんなと手をつないで何かをしたり、するときに、「そんなのつまらないからいや」「ぼく、むずかしいからいや」と言うのらしい。まあ、むずかしいからしょうがないのだが、脱走しないだけ、去年よりましなんだが、「いや」が言えるというの、たいしたことなんだが、「いや」をゆるすのも、まずいような気がする。んー。どうしたもんだろう。