ハプチョンの友だち

そういえば掲載誌をもらっていないが、原稿料はふりこまれていたので、載ったのだろう。たぶん秋頃。長距離バスの椅子の背にはさまれているらしいフリーペーパーに、旅の話を書いた。2度目。
ファイルの整理が苦手なので、記録がわりに、ここに。


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陜川(ハプチョン)の友だち
    ──一九八四年韓国ひとり旅②
               野樹かずみ

 一九八四年十月、下関から船で釜山に渡った私は、釜山で出会った学生たちと数日過ごした後、慶州、大邱を経由して陜川へ向かった。ちょうどその頃、仲間たちと在日韓国人被爆者の被爆体験の聞き書きをしていて、広島には陜川出身者が多いと聞いていたので、訪ねてみようと思ったのだった。
 さて、陜川に着くには着いたが、バスを降りて行くあてもない。田舎町をふらふら歩いていると食堂の裏庭に迷い込んだ。その家のアボジ(お父さん)に声をかけられ、広島から来たことを告げると、家にあげてくれて食事を出してくれた。アボジは解放まで日本で働いていたという。オモニ(お母さん)は広島で生まれて、十二歳で被爆後、帰国した。「広島のどこですか」と訊くと「吉島」と言うので驚いた。そのころ私は吉島に下宿していたのだ。オモニは肩のケロイドを見せてくれた。それがまだ痛むこと、前年、治療のために何か月か広島の河村病院に入院していたことは、アボジが教えてくれた。「オモニはもう日本語を忘れているよ。でも日本生まれだから韓国語の発音はへんだよ」
 外国へ女の子がひとりで行くなんて親は心配しなかったかと、コモ(伯母さん、アボジのお姉さん)が私の家族のことを聞き、私が母は死んだと言うと、「アイゴ」と言いチッチッチッと舌打ちをした。「オモニいないとさびしいね」と言った。「うん、アボジがね」と言うと「アボジちがうよ、あなたがね」と言われて、ふいに泣いてしまいそうで慌てた。
 「ファラン食堂」という名前の食堂だった。ここに泊まればいい、とみんなが言ってくれた。アボジとオモニには四人の娘がいて、キョンジャという名前の、私と同い年の娘は、高校を出て店を手伝っていた。彼女は韓国語しかできず私は日本語しかできない。ふたりとも英語が苦手。私たちのやりとりはちんぷんかんぷんだが、意思疎通はできるのである。田舎の幼なじみと一緒にいるみたいに、不思議になつかしく、ほのぼのした気持ちだった。
 陜川には、韓国で唯一の原爆診療所がある。そこにもキョンジャが連れていってくれた。院長の鄭基璋先生が、在韓被爆者の現状について、いろんな話をしてくださった。話も終わるころ、ふと「戦争は負けたら駄目です」と先生は言った。なぜですか、と訊いたら「負けたらみじめでしょう」と言った。先生のその言葉がずっと忘れられずにいるのだが、敗戦国の日本人よりももっと、みじめさの底を生き抜くことを余儀なくされたのが、韓国の被爆者であったのかもしれない。
 店が暇な時間になると、キョンジャと私は町を散歩した。小学校があり、町のはずれには広い河原があり、水の青さと河原の石の白さが、陽に輝いて眩しかった。いたるところコスモスが花ざかりだった。私の手をしっかりつないで歩きながら、ふいに空を指さして「韓国の秋の空は美しい」とキョンジャが言った。韓国語はわからないのに、彼女がそう言ったことははっきりわかった。見上げると、どこまでも透きとおった空の青だった。
 翌年もう一度、ファラン食堂を訪ねたが、その後は、韓国へ行くこともなく歳月が過ぎてしまった。いろんなことが変わってしまっただろう。でも、キョンジャが見せてくれた美しい秋の空だけは変わらないだろう。