差別感情でなければ何か

目にとまった記事。

神奈川新聞社説  2月14日

朝鮮学校差別は筋違い 

黒岩祐治知事は13日、県内の朝鮮学校5校に交付してきた補助金を2013年度当初予算案に計上しない方針を示した。北朝鮮の核実験を受けての措置だという。補助金継続は県民の理解が得られないとの説明だが、核実験に責任を持たない朝鮮学校と、そこで学ぶ子どもたちに制裁を肩代わりさせるかのような政策は理解に苦しむ。

繰り返された核実験は日米安保への重大な脅威であり、強い憤りを広く伝えることが重要だと知事は言う。だが、北朝鮮本国の問題と朝鮮学校を切り分け、補助金支給を継続してきたのは知事自身ではなかったか。それは本国の振る舞いと学校を結び付け、差別的に扱う態度が筋違いだからに他ならない。両者を結び付けることが妥当だと判断を変えるに至った理由を、知事はどう説明するのだろう。

補助金の停止が金正恩体制や日朝間の問題解決に資すると考えるのだろうか。これまでに東京、大阪、埼玉などで同様に補助金の打ち切りや凍結の措置が採られてきたが、核実験を止めることができなかったことからも、その効果は極めて疑問といえよう。

そもそも、いかなる国の学校であろうと選択し、学ぶ権利が子どもにはある。国内で暮らす外国人、あるいは外国にルーツを持つ子どもたちの教育を保障することは、国際社会の一員としての責務だ。自らそのルールを逸脱しては国際社会の輪を説き、北朝鮮を非難する資格を失うのではないか。

知事は北朝鮮による拉致事件の被害者、横田めぐみさんの両親である滋さん・早紀江さん夫妻に面会を重ね、その悲嘆に触れてきたはずだ。
滋さんはかねて、拉致事件の解決には制裁ではなく対話こそが求められているとし、朝鮮学校とどう向き合うかと北朝鮮の問題は別々に考えるべきだと口にしてきた。
早紀江さんはかつて本誌インタビューに「自分が優位に立っていると考えることから悲劇は始まる。戦争も、北朝鮮との関係も同じことが言える」と語った。拉致事件が被害者よその家族を一顧だにしない蛮行であったのと同様に、不信や憎悪を背景にした独善が対話を阻み、悲劇的な結果を迎えてきた、との戒めだ。

危機意識を触媒にして排斥が正当化されようとしている風潮を危惧する。知事には再考を強く求めたい。


☆☆☆

その通りだと思います。

だいたい、補助金支給に「県民の理解」が得られないという説明がわからない。
埼玉県の知事も言った。「日本人拉致問題が何ら進展がなく、度重なるミサイル発射や核実験など、もう我慢にも限界がある。国民感情や県議会の決議もある。総合的に考えて計上しないことを決めた」

ばかか、と思う。拉致やミサイルや核実験は朝鮮学校とは関わりない。未成年の児童や生徒に、なんの責任をとれっていうんだろう。

12日、北朝鮮の核実験で、広島の原爆資料館は、最後の核実験からの日数を示す「地球平和監視時計」をリセットした。米国の臨界前核実験が去年の12月、それ以来で、表示が「69」から「0」に戻された。

核実験はろくでもない。でもアメリカが核実験したからって、アメリカンスクール補助金停止になったり、中国が尖閣諸島あたりでどうこうしたからといって中華系の学校が無償化除外になったとかの話はない。
教育の場に政治のあれこれをもちこまない、という良識が働いているからだが、朝鮮人学校に対してだけ、そうでないのはなぜか。

国の高校無償化から朝鮮学校だけを除外していることについて、大臣は「国民の理解」が得られない、と言ったのだが、朝鮮学校排斥の理由になっているところの、その国民感情、県民感情というものは、差別意識、でなければ何でしょうか。

国民感情に配慮する、というのは、国民の、差別感情に配慮するっていってるのと同じことに思える。つまり、国民、県民は、差別主義者だと名指しされているのと一緒で、侮辱的だと思う。

差別を差別と気づかないから差別なんだと思うけれど、
差別を差別と気づかない、いじめをいじめと気づかないのは、
恥ずかしいことと思います。

在特会あたりのヘイトスピーチを、犯罪として取り締まれないのも、恥ずかしい。民族差別があるのに、民族差別禁止法がないということも、恥ずかしい。

私は恥ずかしいです。
それで、この恥ずかしさの分だけ、私は日本人なんだろうなと思うわけですけど。