「人は私をして考える」

河津さんのブログに、
ランボーの「私は一個の他者です」という言葉が引用されていて、
その言葉はぼんやり記憶にはあるが、こんなに生々しい言葉だったのかと再発見した。
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/01/post-5378.html#comments

「われ思う、などというのは誤りです。人は私をして考える、と言うべきでしょう。──言葉の遊びを許してください。」
何かとても腑に落ちた。
もの書くと、われ思う、ゆえに書くと思われるけれど、そうではない、と思うもん。「私」のことを書いてさえ、われ思う、ではない気がするもん。
問われているのは、「われ思う」ことでなく、「私をして考える」に足る「私」かどうか、ということの気がする。
つきつめれば、「神さま」は、といおうか、「詩」は、「人」は、「声」は、「一個の他者」である「私」を通過してくれるだろうか、という畏れ、あるいは祈りになってゆく気がする。
ヴェイユの、脱創造。