平積み 「短歌研究」3月号に

駅で男の子たちと別れたあと、紀伊国屋に行く。
半年ぶりか、1年ぶりか。
街が遠いのと、金がないのと、そもそも外出嫌いなので、往復3時間かけて、本屋に行く気力はなくて、めったに行かなくなってる。購入はネットで間に合うし、買えなければ図書館に予約するし、あまり不自由も感じないのだ。

で、とっても久しぶりの紀伊国屋
詩歌の棚がどのあたりかも忘れているが、ふらふら見ていて、え?
と思った。
「天秤 わたしたちの空」がある。
平積み。
えええ?
数えたら11冊ある。
嘘でしょう。
あの。
そんなに売れる本とも思わないんですけど、でも薄い本だから、書架に立てたらそんなに場所はとらないから、一冊ぐらい置いてもらえたらうれしいかもしれないんだけど、こんなに平積みだと、人並みに場所をとってしまって、薄い本の意味がないというか。
あの。
いいんでしょうか。
売れないと、返品になるのかな。
でも私お金がなくて、たった一冊もひきとってあげられないんですけど、ああどうしよう。

あとで、きっと夢か妄想かと思ってしまうと思ったので、写真撮った。
本屋さんに本があるということは、では、私は本を書く人になっているのだろうか。
嘘みたい。
ああ驚いた。ほんとに驚いた。

そういえば、紀伊国屋に置いてもらうとか、聞いたような気がする。けど、たぶん、全然、本気にしてなかったんだな、私。

「短歌研究」も立ち読み。
山田航さんが書評で取りあげてくれていました。ありがとうございます。他人の本のなかに、ふと共鳴できる声を聞いたような、へんな気分。いや自分が書いた短歌なんだけど。こうして引用してもらうと、いい歌みたいに見えてくるから不思議。 というか、ちょっと救われる気分。だって書いてるときは自分で自分の短歌がすごくきらいだもん。
なんとなく、そのあたりが人生と似ていて、自分が嫌いでも首くくってはいけないというか、なんとか生きてみるというか。

ノンフィクションの棚であれこれ立ち読み。しんどくなってすわり読み。絵本のあたりをさまよい歩く。地球儀が欲しいなあ、と思う。くるくる楽しそうにまわるやつ。


  ごくまれにモップではなくわたしを見る人がいて(まだ、人間のかたちらしい)
  裏通りの十字路ごとに立っているいろんな国から来たマリアたち
  何が不満なのかと問われた(花びらを口いっぱいに詰め込まれて)
  自己愛の破片が何十年いやもっと降り積もったゴミの山かも〈わたし〉かも
  子とふたりきりの危うさあまやかさ粉ミルク床にこぼれていたり
                                「天秤 わたしたちの空」